琵琶湖
diary

言葉は思考をトントンたたく

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踊る阿呆 森山未來・自撮り365日 で森山未來さんが朗読した言葉。

ゴミをかき集めては生活を組み立てる。それはただ、誰かがゴミと決定しただけのもの。蠅が舞う。無遠慮に払う。気にも留めない。蠅が汚いものの象徴である理由は何か。汚物のあるところに必ずいるからだろうか。見た目や羽音が不快だからだろうか。

蠅への不快感は人間の遺伝情報に書き込まれているのだろうか。それぐらいあの不快感は初期設定されていて、蠅を見つけた瞬間によぎる鮮明なネガティブの質感を疑わない。

日本に住んでいたら顔のまわりを蠅が飛び交う体験はめったにない。だから不快に感じるのか。ブンブン羽音を立てて八の字を描くように飛び回っているのに家事をしている姿を映像で見かける。そういう所で生活していたら気にも留めないのか。

あたりまえであることは自分の影が後ろに伸びるみたいだ。ふりかえって影を確かめない。あたりまえでない場所へ行ったとき、ソフトウェアのレイヤを操作するように、最背面にあった「あたりまえのこと」が最前面にスイッチされて、「あたりまえでないこと」と頭の中にある「あたりまえのこと」が心のなかで比べられる。

あたりまえとあたりまえでない。差異は真っ平らな日常の両端を持って揺らす。日常に生まれるへこみとでっぱり。それを埋めようとする言葉は思考をトントンたたく。

蠅が汚いものの象徴である理由は何か。

思いつかない疑問。触れてざわざわした。思いつけなかった焦りと蠅への不快感の表面に穴が開けられた感覚。焦燥感と爽快感がいっしょに跳んでいる。

背後の影を踏まれて痛いと感じられたら、注意の総量は今よりも少しだけ増えると思う。思いつかない疑問は、そんな痛みを感じさせてくれる。初めての痛覚。

痛みは視点を拡張する。散歩で撮った写真を見て屈んで撮らなかったことを悔やむ。そのときは「知らなかった」のだ。全景を見たとき、「視点」にはじめて気づく。

テーブルに置かれたペッドボトル。見ている面の反対側へ移動する。その移動距離が視座の面積。すぐ移動できない。同じ「点」をずっと見ている。ペットボトルを手に取ればぐるっと回せる。鳥瞰。鳥瞰の視座を知らず、また手に取らないで「反対側」を想像できるのか。背後の影が抱えている疑問。その場ですぐに「反対側」や「隣接面」を探せる人は、視座の面積が広い。視座の面積が発想する。面積が広くなれば、たくさんの視点が芽を出し発想する。

私がどれだけ否定しても信用してもらえないことがある。何度「いいえ」と答えても信用されない。何度も尋ねられる。そのたびに「いいえ」と答える。質問と否定が儀式のようにくり返される。質問は一つ。だから答えも一つ。この儀式の意義を見いだせない。

私は「いいえ」の点だけを見ていた。でも「痛み」は「いいえ」から私を連れ出した。屈んでみた。同じものを見ているけれど見え方が変わった。ペットボトルの反対側へ近づいてみた。想像でしかない。タグがつけられていない蛸足のようになった16本のLANケーブルを見て、抜き差ししながら信号を確かめる。あたりをつけたケーブルと信号が一致したときの一息。そんな一息をつきたくて反対側へ近づく。

どのケーブルを抜き差ししても信号はない。人心の信号を正確に受信できない。不可能。不可能を可能に錯覚させるのが言葉である。言葉にしてもらって私の心のポートに配線されたケーブルが相手の信号を受信したと納得する。

行方不明の信号を探す。見つからなければ配線し直す。

16本のLANケーブルを配線し直してすべて接続を確認できても、一人の心のケーブルを何度つなぎなおしても接続できない。

そして電源を落とす。

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