琵琶湖

言葉を選ぶだけで視点が限られる

いまその質問はあまりよくないですね。そういう考え方はよくないな。うーん、そういうの外して、なにやら危険ですね、この段階で。カブトムシってさなぎの時にいじると死んじゃうんですよ。あの今そういう時期なので、えー、なかなかね、今の質問はかなり何か、うん、さなぎをブンと突くようなですね、なかなかデンジャラスな(以下、小声)….。

ええっとね、だから僕、ほんとはあまり答えちゃいけないんですよ、答えたことで固まっちゃいますから。今固め…ない、ちゃいけないとこなんですね。

なんて言うんですかね、全体視のような、あの、視点でいきたいのが、今話して、言葉を選んでいるだけで、すごい視点が限られてきているんですね。そういうことを今したくない、時期なんですね、だから新作のためとかそういうのとか、では一切ないということですらない、ということを言わない、みたいな、後ずさりしながら、何というのかしら、そう、うう、まぁ、

2015年5月17日放送の情熱大陸のシーン。話しているのは画家の山口晃先生。先生がMacBook Airで先人の作品をブラウズしている最中、スタッフが沈黙の重さに負けてつい声をかけた。

いろいろ絵を何枚か見られていたので、何かこう、次のこう、新作の何かを探しているのかなぁと思ったのですけど

先生はそれを聞いたとたん、あぁーと目をつむって顔をゆがめて俯き、目線を虚空に彷徨わせながらゆっくりと話し始めた。おだやかな口調であるけれど、静かな「何か」を発していた。

私は怒りを感じとったけど、怒っていらっしゃるのどうかわからない。なにせ先生のあの口調で顔は穏やかなままだ。でもお話ししていらっしゃることはとても厳しい。

言葉を選ぶだけで視点が限られる。昨年あたりから引っかかっていた心象を具現してもらった気がした。

夕方の散歩の帰り道、鳥のさえずりが聞こえる。さえずりは四方八方から聞こえるが、頭に何かがよぎっていたら、さえずりは聞こえているようで聞こえない。具体的なことを考えているわけではないけれど、何かが頭に浮かび、それはどうしたものか、なぜか、ああしようなど、ランダムに浮沈している。

でもその何かを頭から消し去り、「意識」してぼんやり歩きはじめたらさえずりは耳へ届く。鮮明に聞こえる。音の質感が変わったようにも聞こえる。

お店に流れている曲は、音が在るとわかるぐらいで感じるほどではないのに、記憶と結び付いた音楽が流れてきた途端、話するのも聞くのもそぞろなり、ボリュームを大へひねったかのよう。そして意識は音へ引き寄せられる。

この「切り替わる」瞬間をわざわざ「切り替わった」と感じない。でも、さっきの切り替わった瞬間を思い出そうとしたら、今度は鳥のさえずりが彼方へフェードアウト。あの「瞬間」の体感をたぐりよせ、言葉を選びはじめる散歩。語彙のハードディスクから文脈のディレクトリを探し、説明のファイルを作成する。誰に説明するためのものではなく、自分の認知を確かめたい衝動である。そうなれば視点はものすごく限られてくる。

全体視のような散歩をしてみたい。なにも考えずに歩くこともどこにも焦点を定めずに歩くのもとても難しい。なにも考えずに15分座ることに通じていて、視覚に入ってくるもの、聴覚が反応する音、ぼぉっとしようとすればするほど、それらが世界から切り取られたかのように、焦点が合い、一つの音が聞こえる。

忘れようとすれば忘れられず、「忘れる」から逃げ切ったら「忘れたことすら忘れていた」ようなもの。意識に在るあいだは像が残っている。意識からなくなる代わりを内発されるまで待つこと。