ペットボトル

見たくない部屋のなかでじっと座る

『死ぬことと生きること』に付箋がふえていく。土門先生のように寝ても覚めても写真を考えて実践する日々ではないし、鬼気迫る文章のような性根を備えていないけれど、「きれいな写真よりも記憶に残る写真」「うまい写真もよいけれどハッとさせられる写真」を撮りたい。

プロになったら、好きな写真は撮れないのだ。毎日、撮りたくもない写真を撮って暮らすのが、プロというものなのだ。もし、撮りたい写真だけを撮っていたら、すぐ、あごが干上がってしまうのだ。よほど低能な写真家なら、つまらぬ女優のプロマイドみたいな写真ばかり撮っていても、何の懐疑もいだかず、得意になっていられるかもしれないが、少しでも作家的な意識を持ったら、自分のうちに燃える意識と自分が現実にやっている仕事の引裂かれた矛盾のなかに、年中、もだえつづけて生きなければならないのだ。しかも、生きるには、家族を養うには、金が要る。プロがプロであるかぎりは、写真を撮って、写真を売って金をもらうよりほかに収入の道はない。そして、金になる撮影、金になる写真は、作家的な意識とは矛盾した、妥協したものばかりなのだ。
『死ぬことと生きること』P.124

撮りたければ撮ればよい。アマチュアだ、好きに撮ればよい。なのに毎日撮らないし、先生のように一日何百回も空シャッターを切って練習していない。

天皇の料理番の主人公が脇目も振らずにやりたいことをやっている無邪気なわがままぶりと底なしのろくでなし(小僧としては役に立っていても)を刮目して、「他人にどれだけ迷惑をかけても立ち止まらずわが道を疾走しているあの時の自分」をあとから主人公が振り返ったら「努力」と口にされるだろうか、と思う。

弟子入りした若い頃の土門先生が、一心不乱に練習している姿を読み、先生はこのころの自分を「努力」したとおっしゃるだろうか、と思う。

地に足をつけた生き方をしてない人間だから。 よく言うじゃない。「地に足のついた生き方」とかって。そういうことがなかったの。現実的じゃなかったの。何となく自分がそう思うのね。いつも半分非現実の世界に生きてたと自分が。空想や何か自分の作りたいものとか描いているものの中で生きてたような気がします。結婚もしなかったんですから。現実ってものを避けてますよ私は。子供も産まないし。ほんとに母というものにもならないし妻というものにもならないし。何かそういう生き方を避けたっていうところが私です。それが私ですよ。だから私の作るものも非現実なんですよ。地に足がついたっていうもんじゃないんですよ。非常に儚いものかと。 ふわーん浮いてるような… この世に。浮遊物みたいものなのかも。確かに非現実ですよ私は。考える事も作るものも。だけでもちゃんと作品としては現実に存在してる。存在はしてる。
墨に導かれ 墨に惑わされ ~美術家・篠田桃紅102歳~

篠田桃紅先生がご自身を評しているシーン。自分と対峙していなければ内発されない言語だと感じた。

土門先生の文章の隣に並べてみたら、色違いの器が二つ並んでいるように見える。「対峙」というテーブルの上で。

見たくない部屋の扉を開けてじっと座って待つ。その中で感じられたことを言語にできるまで待つ。