hydrangea

気が触れる手前まで練り上げていない

危機に陥ったときに性根が現れる。高尚なことを言っても危機に陥ったとたんに慌てふためく人もいれば、一見剽げた人が動じず、死地に陥れ、然る後に生くこともある。専門家が専門以外の事柄に言及して、内容の誤りを一般人から指摘される。インターネットでは日常の風景。専門家は訂正しないで「何を言おうが私の自由だ」と言う。周りからの指摘が増えていく。ついには激高する。人心は遠ざかる。

性根は知識の質と量に比例しない。

なにもかも私という発想は自省を利用した無性であるけれど、「なにもかも私」という発想を発狂する一歩手前まで練り上げたことはない。

「今」は私がもたらした過去。なのになぜその今に苛立つのか?

私の中に善悪はないのに、私の中にある得たいの知れない悶々とした塊を外へ放ったとたんに他人を善悪で推し量る。善悪でないとしたら二項である。

豊富な語彙を自在に使いこなして善悪ではないと弁明しても、理路の先端には「他責」が在る。私がその先端まで自分を導いていないから見えない。自分の視野を遮る私。外は見るが内を見ようとしなくなる。タモリさんがNHKスペシャルででおっしゃっていた、「人間は自分に向き合うのがいちばんキツイ」と。

一冊の本よりも一枚の絵のほうが何倍もの情報量がある、というようなニュアンスを森博嗣先生はどこかで述べていらっしゃった。精確ではないため、引用は失礼にあたるが、たぶんそんな感じだった。

先生の真意は不明だけど、私には一枚の絵が一冊の詩集にあたる。あるいは一つの詩。

詩は何度読んでも同じでない。解釈がない。その代わり思考の種を植えてくれる。育て方は私次第。

住むと習慣は、おなじ言葉をもっている。
住む(inhabit)とは、
日々を過ごすこと。日々を過ごすとは
習慣(habit)を生きること。
目ざめて、窓を開ける。南の空を眺める。
空の色に一日の天候のさきゆきを見る。

『世界はうつくしいと』 長田弘 の一節。付箋。すぐに開ける。開くたびに浮かぶ情景はかわる。「いま」の私が読む。過去の私の読み方は憶えていたとしても思い出せない。更新。

なにかひとつ習慣にしているだろうか。

テーブルの上のガジュマル。毎日見ている。水をやっている。驚かされる。見ていない。伸びた根。いつから伸びたのか記憶すらない。観察が難しい行為であることを教えてくれる。

根をはる。

一つ一つ確実になしとげる。半端があれば始末する。そのまま続けるか捨てるかを決める。「目ざめて、窓を開ける。南の空を眺め」ようと毎日口にして、よしと思い立って窓を開けるわけではない。身体が「そう」動く。「そう」動くようになるまで続ける。動かなければ、頭が「おかしい」とすぐに認識するまで続ける。

あれもこれもできない。できないことを削り、できることに心身を注ぐ。一冊の小説を一度だけ読んで満たされる。変化は日々の潤いを与える。でもあるページを毎日ながめ続ければ、ガジュマルの根がいつあれほどはったのかわからないような気づいたときに変化を与える。

それが性根だと思う。