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[Review]: われらの星からの贈物

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われらの星からの贈物

言葉のフロッタージュとしての一冊の本を、ずっと心に描いてきた。フロッタージュは、事物に紙を直接あてて、鉛筆などで上から擦って、事物の木目をそのままとりだす表現の方法だ。そのように、言葉に紙を直接にあてて、言葉の木目をそのままに擦りだして、思考のイメージをひろげて、新しいコンテクストをみちびくような一冊の本。

われらの星からの贈物 のあとがき。映像的な、視覚的な、文章の絵画を眺めているかのよう。私の手が鉛筆で木目を擦りだしていく姿を天から見下ろすように、言葉の映像をイメージできた。このあとにつづく「行間と余白」を述べた数行は、それだけで私にとって一冊の本。

「鳥について」から「沈黙について」まで、16の断想。古今東西の本から引用された断片、「言葉の木目」が擦りだされる。読み進むにつれ、どれが引用でどれが著者の言葉かわからなくなり、気にならなくなる。

巻末の注。引用された本がまとめられている。未読どころか、知らない本ばかり。読んでみたくても絶版もあり、絶版こそ電子書籍で刊行して紙の遺品にしてほしいと常日ごろ願っている。事情があるのだろう、なかなかお目にかかれない。

既読を見つけて小躍りし、書架へ手をのばしめくる。著者のように読んでいなかった。無限ではないけれど無数にある読み方のひとつにふれたとき、高鳴る。「私の中にあるこの本の現在位置は”ここ”」と心象された「本の地図」は、著者によって現在位置が置き換えられる。現在位置:哲学から置換された位置はデザインであったり。

ただ、アンデスの青年たちは、死んだ女性の死体にはついに手をかけなかった。雪のなかに倒れて死んだ女性は、マリアを想わせた。マリア。神の子という非嫡出子を、この世に生んだ女性。「人間は二つの方向から、危険を冒すのであるー希望と絶望によって」と、聖アウグスティヌスはいった。そして、こうもいった。「この生を、死すべき生とよぶべきか、あるいは生ける死とよぶべきか、私は知らない」(同P.91)

生きてこそ をみたときの情感が再生される。断想「死の食事」、続く「死体について」は、死ではなく死「体」をそんなふうに思索したことはなく、物事のみちすじを歩くとき、道具はなくてはならない、その道具が「言葉の木目」である。先人が残した言葉に「紙」をあてて擦る。浮かび上がる木目を言葉にしていく。

はじめからおわりまですべての文字を記憶したい。そうすれば散歩の木目がかわる。「言葉の木目」を知り、身の回りを擦る。いままで擦っていなかった細かな小さな木目が浮かび上がる。その木目が更新された心のうごき。私の意識。

そしてふたたび下敷きの「木目」をめくる。何度も。

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