楓

人間なら相手のどの毛並みを見て嫌うのか

正と負。数学は正と負に感情を与えなかったけど、負が名詞の前につくとかんばしくないニュアンスにきこえる。たとえば負の感情。形容しがたいとても広い意味で使い、自分を損ないそうな感情であり、はっきりした「嫌い」ではなく、負の感情といったほうがしっくりきそうな反応もある。正体不明が負の感情をもたらし、「負の感情」という単語を思い浮かべるより先に皮膚が反応している、あるいは嗅覚や視覚、聴覚。

梅雨。すれちがう人からのにおい。臭いか匂いか。これも臭いと書けば「負」を、匂いは「よりよき」を感じる。音で「におい」はその場の雰囲気から「におい」に込められた感情を推し量り、文字で読めばすぐに感じられる。

私もにおい発散している。どちらだ。自分のにおいに鈍感で他人のにおいに反応する、敏感でないにしても。雑巾。雑巾のにおいは悪者ではないし、雑巾を差別していないのに、すれちがった人からあのにおいが空中に残ったとき、ほんの一瞬だけ発する、たぶん目盛り1へ向かおうとした限りなく0に近い負の感情、の発露。

自分は? 数十m歩く間のよぎる不安。

お店で声をかけられて、すみやかに測定するなにか。声、表情、仕草、どれかわからない。はっきりした「嫌い」や「苦手」ではなく、そもそも初対面の人をなにも知らない。けれど反応する性。自分のなかにある分類表に判定しなければ相手と会話できないのだろうか?

会話はそれ自身単独でSNSのメッセンジャーのように流れていっても、バックグランドで身体はなにかを測量している。分類するために必要な情報を、あるいは何者かを識別しなければおさえられない気持ちを静めるための情報を。

「嫌い」や「苦手」を言葉にできたら安心。そこには理由がある。理由はいろいろあるし、他人から見れば理由といえないレッテルであったとしても、当人ははっきりした「意識」の理由をもっている。

ひょっとしたら理由はその人を拒絶している自分を嫌いにならないために自身を説得するためだけに必要な情報かもしれない。

それよりもやっかいなことは定かでない発露。言葉にできず身体が反応するだけで明確な理由はない。あえて「負の感情」と名づけても持続可能性はなく、細切れ肉のようであり、細切れがひとまとまりになったら立派な食材だから始末しなければならない。感情の料理。そのとき私は「嫌い」だと強く自覚する。

できあがった「嫌い」を前にしてそれを食べる理由をさがす。理由があって拒絶したのではなく、身体が反応して、途切れ途切れ測定や測量や判定が拾いあつめられて、それから「負の感情」がわき起こり、ふたたび身体が反応して、やがて塊に変容して拒絶する。そんなふうな順路をリバースエンジニアリングしてみる。

毛嫌い。「(鳥獣が相手の毛なみによってすききらいすることから)何という理由もなく、ただ感情的にきらうこと。」と辞書にあり、単語の存在を再確認した。毛嫌いか、そうか、そう言えばよいのか。

嫌いと毛嫌い、どちらに罪悪感を抱くだろう。はっきりした理由があって嫌いである状態とただ感情的に嫌うこと。「ただ感情的に嫌う」という表現も突きつめようとしたら混乱しそう、”感情”をひこうとする指へ指令、止まれ。

好き嫌いがはげしいと公言していた。それは「自分を理解して」という付箋。相手にペタペタはっていた。これからは付箋をはがしてまわる。あるいははじめから沈黙。黙ってはげしく嫌うか好きになろうとふるまう。助詞の使い方をほんのわずかにあやまるだけで、身体が直感的に反応して、微量の「負の感情」が蓄積されていたりする。あとからわかる。言葉にしていたから認識できたこと。

身体と言葉のずれ。