倒れた大木

一面が黒であるから空白とわかる

千葉はなさんの手紙をEvernoteへ保存して、時間と時間の切れ目に差し込む。20年前なら紙に書き写して持ち歩くしかなかった。なにより手紙が公開されるかもわからない。

人は面白いものです。自分が死んでゆくのを悟れるものだとわかりました。

その悟りをしたあとは気持ちが晴れ、すごく楽になりました。
私はもともと人が死ぬことを悲しいという風に思っていませんでした。
むしろ卒業というような喜ばしいことだとどこかで感じて生きていました。
なのでそれもあり全然死に対しての恐怖もなくつらさもなかったです。

周りで支えて下さった方には寂しい気持ちにさせてしまったかもしれません。
ですが私は今とてもワクワクしています。皆さんとひとつになれるような気がするからです。
私の身体はなくなっても、私は存在します。だから悲しまないでください。

参照

希有な例をのぞけば死は一度だけの体験。今日も確実に死へ向かっているのに自覚はなく、死への過程を認識できない。もしいま死への過程を体感しても、「別の死に方があった」と少しだけ巻き戻して再生できない。未来はわからないと言われるなかで、一つだけ確定していて、完璧な不可逆である死。どんなふうに暮らせばこんな手紙を書けるんだろうか?

何か事を終えて、次の事をしようとするとき、続いているはずの時間がさける。ダンボールに仮止めされたガムテープをカッタで切ったときの裂け目。裂け目を縫い合わせるように時と時をつなぐために画面をのぞきこむ。

電車の移動や家事から家事の遷移だったり、時はよどみなく流れているのに間をつけて流れを止める。

流れのなかに石を円状に配置して生まれた空白。誰が配置したかわからない。主体を失った時にタップする画面は、いつしか時の主流になる。

心が黒だったら、そこに一点の白をたらせば空白がみえる。はっきりわかる。もしその白がどんどんひろがって黒を覆い尽くしたらどうなるんだろう。空白でなくなるのか。歩きながらの言葉遊び。

生が黒だったら、そこに一点の白をたらせば死がみえる。もしその白がどんどんひろがって黒を覆い尽くしたらどうなるんだろう。これは違うと自答する。面と点ではない。一体だと思う。

新羅善神堂への途中、切り倒された大木がある。切り倒されていないかもしれない。根っこから掘り返されて倒されたのかもしれない。高さは10m以上。横たわっている。倒れた姿は死よりも生を感じせる。倒されて何年経つかわからない。3m以上はありそうな根元には土がまだついている。風雨にさらされているのに落ちていない。

植物としての生死を尋ねられたらわからない。ただ在る。少しずつ枯れているんだろうけど、何年経てば一切が土に還るんだろうか。そもそもこの大木は朽ちて物質が崩壊して土に還るんだろうか。

もし植物として死んでいるなら、目の前の大木は在るけれど死んでいる。存と死。

もう会わなくなった人は生きている。どこか新羅善神堂の大木のよう。最後に目にしたときの姿形のままで記憶されて、そこから変わらない。変わらない姿のまま、記憶が姿形の詳細を描けなくなるまで、記憶の土にゆっくりと還っていく。