階段
diary

蟻の巣の断面図を眺めるように掘っていく

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大阪駅の桜橋口改札から入る。数メートル先にある階段。十段から十五段ほどの階段。キャリーケースをひっぱって入った観光客は立ち止まる。桜橋口改札から入って(しまうと)各線のホームへ上がる階段にはエスカレータは設置されていない。

観光客の方々はそれをご存じないはず。いつもここから出入りしているからキャリーケースを引きずり持って上がる光景が視界に入る。観光客には鬼門。

大きな雨粒が降った仕事からの帰り、鬼門から入る。はじめの階段を上がろうした。60代ぐらいの女性がキャリーケースを引きずっていた。一つ段を上がるにも両手で引っぱり上げてガタンと車輪が階段にぶつかる。目の前。さすがにやりすごせない。一声かけて残りの5,6段ほどを持って上った。

いままでは見なれた光景に割りこまなかった。最近はとつぜん入りこんでみる。外国の観光客だとためらってしまう。なぜためらってしまうのかわからない。

通りすぎる人々。見なれた映像からはじめての映像へ切りかわる。自転車から自動車にのりかえたような既視感。自動車を運転する人も自転車に乗るだろうし、その反対もあるように、通りすぎた人々の視点も他所で立ち止まっているだろう。

たまたま目にした人々はここで通りすぎていくだけ。それぞれの事情が足早に去っていく。

いままでキャリケースの横を通りすぎてきた。まるで自分の内面を見たくないかのように通り過ぎる。キャリーケースを見て見ぬふりできたとしても、内面を通り過ぎられない。道端に落ちたごみを拾わず歩くように内の無限を歩く。

面談と称して他人にあれこれ質問する。その最中、私は私を知らなくても他人に質問している姿を見おろす。シュールな構図。

こころの処方箋 (新潮文庫) のなかでときおり引き合いにだされる人々。相談者のわずかな一端。たとえば健康病のAさんや急に仕事をするのが嫌になった中年男性。数行に記された他人の悩みやおこない。どうしてそんなふうになるかわからないと思って読みすすめていたら手がとまる。他人が私と接していたら、引き合いに出された人々のように映ることもあるだろう。

「協力から理解へと到る谷間にさしかかっているとき」に起きるギクシャク。フレームが広がる鮮明な感覚。理解しているから協力していた。誤解だ。協力していても理解していないとフレームを広げれば、景色はかわる。「協力関係を理解と取り違える」から、わからなくなったと思ったときに協力関係に亀裂が生じる。

「なにを考えているかわからない」に含まれるいらだち。いらだたしいのか腹立たしいか、もしくは言いあらわしにくい塊。それらの源泉を発見できない。わからないから分かろうとしていたつもりなのに、いつのまにか他人の内面を解釈している。

解釈の柱をささえる石は想像力。想像力という言葉。想像できない正体不明の力。その力を備えていても、想像もつかない人々はいる。「なるべく使わない」リストに分類してある。

引きずり上げられて音を立てるキャリーケースが内面に思える。見過ごしたいし、一声をはばかるときもある。目にするたびに立ち止まろうともしない。引きずっているのは私であるけれど、通り過ぎてしまいたい。手を離せば落ちる。ガラガラ、ドカン、バタン。

おかしいと思う気持ちを外側から内側へ向けるようになれば、掘るための道具がいる。手に入る道具は言葉しかないのか、ほかにもあるのか知らない。ひとつ知ったのは掘るようになれば他人への口数は減っていく。蟻の巣の断面図を眺めるように掘っていく。夢中。

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