彼岸花

自分の心を読む時間

『幼年期の終り』ハヤカワ文庫 SF (341)を読み終えた。もっと若く多感なころに読めば、数倍の衝撃を受けたと感じるし、否、いま読んでよかった、衝撃よりも問いかけられた、突きつけられたテーマを自答したい衝動にかられた。読み終えてから感じるパターンをいくつも持っていたい気持ちは歳とともに強くなる。

SFファンではない。作品を紹介しているサイトを調べて買うぐらい。ユートピア、ディストピア、どちらでもかまわない。登場するテクノロジーやツール、ギミックを理解できていない。時折、睡眠導入剤がわりに利用している。突きつけられる「何か」があれば読み耽る。

“幼年期の終わり”の意味を探りつつ、読みすすめていくうちに、現在の状況に置き換えても違和感がないラストへの疾走感がたまらなかった。

再読しないと決めた本は処分する。読み直すかもしれない本は並べてある。それも処分して未読の書籍だけの書架を想像する。どれも背表紙は見ていても読んでいない本たち。気持ちはどう変わるだろう。所有って何だ。本屋や図書館から「ここ」に移動してきただけなのに、あそこにあるのとここにあるのと何が違うのか。

万が一、既読をすべて処分できたとしよう。でも絶対処分できない本はある。処分するぞぉと決めたのに処分しない本。詩集。そして『今日は死ぬのにもってこいの日』。これだけでOKか、無理かな、ぐるぐるまわる。

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)を買った。昨年までなら決して手に取らなかった。もし本屋で手にしてもパラパラめくるだけだ。「これがセブンの”ジョン・ドゥ”が読んでいたやつか」と心のなかでタイピングするだけ。あっ、そういえば長いあいだセブンを見てないな、久しぶりに見るか、と呼び水にはなりそう。たぶん『ヒストリエ』や『チェーザレ 破壊の創造者』を読んでいるからだ、触発された。

あとは読後感の変化。先日、日の名残り (ハヤカワepi文庫)を読了してはっきり自覚した。薄々感じていた変化。物語から感じること、テーマは何だったのか、メタファーは何か、いまの私をとりまく環境に置き換えたらどう類推できるか、と想像する。むかしはしなかったこと。読んだあとの想像が待ち遠しい。想像に正解はない。ときどき他の人の読み方を検索する。(検索の仕方が稚拙である点は認めて)現在の検索システムは有意義な結果をなかなか表示してくれないけれど、そんなふうに読めるのかと感嘆するサイトに出会えたら、もう一度手にとってめくる。

そんな変化があるから、昔なら手にしない本を読んでみたくなる。反対にむかしなら読んでいたであろう本を読まなくなった。

ただ変わらないのは死。死が隠されずに死について抑えられない気持ちが書かれた本は読んでみたい。

有名人や著名人が亡くなられると、Twitter の TL がざわつく。ざわつきの濃淡はさまざまだけど、治療法が標準医療でなかったと報じられたら、ざわつきははげしくなる。

癌であると公表されているだけで、標準医療と代替医療のどちらを選ばれたかをわからないとき、事実か噂か私には判別できない記事がならぶ。ご本人が公開しているならば確かめられる。いまならSNSやブログを使って発信している。Steve Jobs は癌と診断されてはじめは代替医療を受けていたと後に報じられて、はじめから標準医療を受けていればと惜しむ声をあちこちで読んだ。

標準医療と代替医療が正しい名称か知らない。しばしば目にする単語を使っている。

ざわつきが甚だしくなり、誹謗中傷も散見される。おだやかに話し合えるようなことではないにせよ、「信じる」ことはこういう状況なのかもしれないと賛否、誹謗中傷、専門家の解説に目をとおす。

生きると死ぬが両立できるように、生きるが既読、死ぬが未読にならないように、人の心を読む時間より自分の心を読む時間を費やしたい。