芙蓉

観察は時間を超える

「あぁ」

ため息。うなだれる。SDカードからMac miniへ転送した写真がディスプレイに映しだされた瞬間。ピントが合っていない。手前に合わせたはずなのに奥の筋状に合っている下の写真。悔しくて翌日ふたたび撮る。上の写真。でも再現できない。同じシーンは二度とない。「二度とない」といつも戒める。それでも失敗する。

芙蓉

視力が極端に低下した。今年の人間ドックで指摘された。眼鏡を装着して測定した右目は0.2。昨年は0.8。ほかに気になっていることもある。「眼科」を脳裏に貼るけれど、ベタベタ貼りつけられた誰も見ていない注意書きみたいになっている。

脳裏の付箋には「献体」も書かれている。片隅にあること。世間に対してなにも役に立っていないから、献体ができればひとつだけ役に立てたと思っている。自分の骸が何かしら参考にしてもらえるならありがたい。生前の手続きや必要な事柄、なにも知らない。

自分のことなのに腰が重い。どうしてだろう。迫っていないからか、現実感がないからか。

先日、FM802から「朝、ストーブをつけました」と聴いて ??? であった。北海道から視聴されている方らしい。こちらはカメラ片手に歩いていたら少し汗ばむ昼間の日向。音と意味を理解できても現実感が皮膚に付着しない。

現実感が乏しい点は似ている。

希薄な感覚。記憶から過去の寒さを引き出してスイッチを押した動作の映像を描く。むずかしい。

今年も夏を乗り切った。実感する体力の低下。ここ数年、いちじるしい。昼食後、近くの公園まで上がる。4月から酒を飲まなくなったあの自然な感覚のつもりで出かける。目的はない。散歩でもない。ただ歩く。いつもなら撮影のために通う公園。撮影8 : 散歩2 を 歩く8 : 撮影2 へ。がなかなかうまくいかない。ついつい被写体が歩く8を奪う。

スポーツウエアを着て両手をしっかりふって大股に歩くような歩きではなく、できるだけ被写体に目をやらず一気に坂道を上がる。上がったら奪われてもよいと約束する。ただし45分で帰ること。15分で昼食をすませて、すぐに出かける。サラリーマンの方ならお昼休みのようなイメージ。いつまで続けられるかわからない。

ただ歩く。つらい。意外なほどつらい。何かを求める。無心になれない。無心はほんとうに至難。光と影、さえずり、名前を一切知らない花、草木が感覚をノックする。

なにも考えずに歩けばすぐに何か浮かぶ。言葉や映像、残像や感情。よくわからない抽象的な塊がぐるぐる回る。前を向いて歩く。いつのまにか首は左右に動く。なにかを求める。求めているものがなにかすら認識していないのに目は虚空を遊泳中。

散歩は夕方。だからいつもと違う時間。光が頭上から注ぐ。斜光と異なる情景。撮影ポイントの前を通る。表情が違う。新鮮な刺激。見ているようで見ていないことを教えてくれる。

なんど書いても書き足りない。見ていないこと。ほんとうに見ていない。「描く対象物をよく観察しなさいって、観察って言葉私よく思えてるんですけど。それが絵を描くってことなんだって」(片岡球子さんが教えた児童の言葉 – 日曜美術館)を見聞しても観察できない。

観察は時間を超えることかもしれないと思う。越える、超える、どっちだろう。時間を忘れるのとちがう。時間が私を制御しているあいだ、じっと見ていられない。時間をこえたところで、対象と私だけが”ある”ようなイメージ。対象と私だけの空間をつつむ時間。

まわりと私の関係を捨象する。それができて時間をこえられるように想像する。対象と私だけが、いまここにあるだけ。それへ歩み出させていない。もっと歩こう。


Comments

“観察は時間を超える” への2件のフィードバック

  1. peach0818のアバター
    peach0818

    上の写真の方が私は好きかな♪
    素人なので詳しくないですが(^^;

    1. ありがとうございます。
      だんだん自分ではわからなくなってきて、好きと仰ってくださった写真を気にいっていくんです 笑