琵琶湖
diary

リアルでやらない自分語り

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昼食をすませて公園へ。ふうの木のてっぺんが緑をぬいだ。いまごろの木々はゆかしい。緑のグラデーションが舞台を降りはじめる。黄や赤が支度する。半袖が往来する夏場の雑踏より肌寒いはずなのに半袖にバックパックを背負った西洋人を目にしてこちらの体感温度が1℃下がるような、微妙ないまごろ、舞台からなかなか降りようとしない緑と、急かすほどの剛気はなくためらいながら染め、なかには一足先に落ちてゆく木々がいりまじっている景色に公園にきた目的を忘れて立ち止まってしまう。だめ、歩こう。

公園内の色を見る。何色か言えない自分と言えなくても開き直る自分をタテに裂く。「次が橄欖色、菫色(菫色は、ロジェ・ギャレーフランスの石鹸ーのヴィオレ)、濃い薔薇色、白、薄緑」(『私の美の世界 (新潮文庫)』P.61)には色の名前がたくさんでてきた。日本語のさばきかたがとても美しくて、『贅沢貧乏』を読んだときも、これが文章なんだと感嘆詞がちらばった。

ことしに入っていつごろからか。充分に生きたかと問うようになった。たぶんさいしょはぼんやりうっすら形にすらならず。夏を乗り越えたあたりからはっきりと問うている。お酒を口にしなくなったのも無意識に問うていたからだってと踵を返してこじつけと前を向く。1999年に煙草、2015年に酒。禁。(容姿を見て)修行僧か(と微笑まれる)。本人は長生きしたくてそうしたわけでなく、むしろ反対の無意識がどこかに根をはやしていたのかと疑っている。クライアントの先生と話していて、急に何かが前景した。充分に生きた。ほんとうにそう思う。

ほしいものを尋ねられたら、フルサイズやMacが浮かぶけれど、ほんまにかと詰問したら消える。ハイブランドな洋服に無知、無関心。おしゃれからは火星ぐらい疎遠。色合わせと靴。退蔵された服の怨念におびえながらせまいせまい部屋、ものはふやしたくない、書籍の増殖は定期的にメンテナンス。

音楽が好きで、なかでも歌詞が好きで、歌詞をよく読む。好きになった歌詞が好みの音なら、ものすごいうまいたこ焼きに出会ったぐらいうれしい。ものすごいうまいたこ焼きは宝探し。説明できたらおかしい。ものすごいうまいたこ焼きは説明できない。とにかくものすごい。

数秒先の未来を予想しながら無意識に聞いている話が裏切られたときに意識的にズレるのが笑いだとしたら、数秒先の未来すら予想できないよくわからない、読む度にかわりそうな歌詞が好み。

具象の歌詞はすべてひとつの対象にむかっていた。そしていまもこれからも向かう。「やわらかな夜」の”儚く脆くて強い想い”になんども支えられ、「ALMA」の情景を浮かべ、「はだかのピエロ」にゆさぶられ、「うたの手紙」に叶えばかならず伝えようと誓い、「光と影」で改竄される記憶にどう向き合えばよいかわからず。まだまだある。

その時間を手元におていなければいまの自分ではなかったし、その時間を失うならばほかを犠牲にする。むかしもいまもかわらない。

ネットでもリアルでも嫌われる自分語り。

他の方々の写真や文章を眺めては自分の下手さにカメラを置きたくなり、もう書くのはやめようかこれまで何度も迷ったけれど、結局は撮っているし書いている。(リアルではやらない)自分語りしかできないけれど、撮ることで、書くことで、よくわからないもの、何かをわかろうとしてきた。いまだにわからないけれどわかろうとしているのかすらだんだんわからなくなってきたけど、確信しているのはただひとつに向かっていること。

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