枯れ葉

ネットか紙かわからなくなっていきそう

第五十四候、楓蔦黄。ネットでは一足はやい紅葉、こちらはいまから。旬のマカジキ。なかなかお目にかかれず。照り焼きかなぁ、温燗で。お酒の組み合わせが浮かんでしまう、ん、もぉぉぉって地団駄をふむ。旬の野菜は人参だそうで。一度、おいしい人参を食べてみたい。

トイレと風呂の掃除は、つらつら思うのにうってつけ。手足と目は汚れに向かい、頭はぼんやりとはっきりを行ったり来たり。車にひかれそうになったり、転びそうだったり、溝に落ちかけたりしない。安心だ。

書き連ねても言葉が上滑り。また書く。上滑り。感じる。重み? 根なし? なんだろう、なぜだろう。ゴシゴシ。またいつもの自問。いつもの答えがかえってくる。ゴシゴシ。どこかで自分を信頼していない。なぜ。根をはらない暮らし。ゴシゴシ。(下世話なニュアンスではなく)稼いでいないから。

まわりは家を持ち、家族を守り、日々の糧を持ち帰っていらっしゃる。もうめったに飲みに行かなくなったけれど、年に一度、先輩たちのお相伴にあずかる。みなさんお金のご苦労を歓談されつつも、一歩一歩の足音が聞こえてくる。耳を傾ける。

親はいつも心配している。もし廃業したらたいへんなことを知っているからだろう。開業して数年、心配も愛嬌と心のうちで笑っていたのも、不惑、初老をむかえて、焼きすぎてしまった魚をみているようなものがまじってきた。リアルタイムに体験している老後、子供も同じように体験するはずと願って、いまの水準を子供はきちんと体験してくれるだろうか、を含んだ語り。みえない匂い。親になれなかったので推し量るしかない。ほんとうにありがたい気持ち。親になれなかったとしても、一個人として想像する、親の心配を。

生まれたときの事情、助かったこと自体がおまけ、めっけもの。それでも丈夫に生んでやれなくてすまなかった、とこれまた口吻に置かれたものを汲んでいるつもりでも親不孝しているんだろうなぁ、面と向かってありがとうを言わないとなぁ、が綱引き。「逆縁だけはさけよう」がたった一つの親孝行、むかしから思っていたが、          。

暮らしをささえる糧を稼いでいる方が、「お金ではない」とおっしゃるしなやかさだろうか。反対にTLから流れてくる「お金はほんとうに大事」とおっしゃる力強さだろうか。コンプレックスや自虐(を含んでいると思うけれど、それ)とは違う「何か」を探す。そこから先はいつも掃除が終わりかけて進めない。もっとさらに奥の気持ちを掘り出す性根がまだすわっていない。

だしぬけに認識した。浮かんだことを書いてきた。ネットに残してきた。おかしいのかもしれない。(“リア充”やらふつうに使われるスラングであっても使わない、使いたくない)”中二病”の書き物は紙に書こうか。ここには書くけど書きたいことに迷っている。紙とネットの使い分けはできそうにもない。でも迷っているのはたしか。

SNSとここは実名。リスクを承知。どうしてもの理由があった。さすがに漢字表記の勇気はない。とはいえ、昨今、SNSでヘイトスピーチしていた人が、なにげなく撮った写真を投稿したら、自宅を特定されるんだから、かつ警察でもプロでもない女性たちが特定したんだから(一部始終を読んでほんまにびびった)、実名・匿名の大差はなく、よほど注意しない限り、プロやハイアマチュアの手にかかれば、あっという間だ。

どうしてもをかなえてくださった。実名でなくてもよい。そうなれば、はじめての匿名への座り心地の悪さ、なにをどうどこに書こうか、いろいろイロイロ色々、etc、悩んでいる時間があるなら「あなたが虚しく過ごした今日という日は、きのう死んでいったものが、あれほど生きたいと願ったあした」(カシコギ) を存分に過ごそう。私にできること、なすべきことへ最善を尽くす。

TLから知った曲。一耳惚れ。お気に入り。聴く日々。


朝、読み返す。悩んでも試行錯誤、続ける。なにをやっても私であり、はいつくばっても私。届けたいことは無尽。ほんとうに幸せだ。