琵琶湖

虚妄のなかの虚妄

二十四節気、立冬。太陽の黄経は225度。地始凍。表意文字、見ているだけでブルブルっと。旬は牡蠣。むかしは生で、いまムリ。公園の坂では銀杏が匂い立つ。踏むと連れて帰らなければならない。フラフラ、ヒラリヒラリ。熱燗のつまみによし、茶碗蒸しにひょっこり顔をだしたときのよろこびも粋。牡蠣ならぬ柿。大好物。

「ハンサムな宅配のお兄さん」の一連の妄想がおもしろい。読み返してはニヤニヤ、頬がゆるむ。語感と言葉のリズム感がうらやましくなるほど。笑いの掌をギュっとつかまれるtweetの数々。先日、翻訳なさったゼロからトースターを作ってみた結果 (新潮文庫)を読んで、ふだん使っている機器がもしも消えてしまったらと思うと、ぞわぁっとした。

妄想や空想が好きな方の話は発想の宝箱。小説家がインタビューや対談で話していらっしゃる空想・妄想系は、現実と錯覚しそうで具体的、いやいや、具体的だからこそ小説を書けるんだろうなぁとか。

私も妄想が好きだけど、ネットで知った妄想・空想フリークな方々に遠く及ばず、長く伸びた影もふめない。

妄想のなかでは、かなえられないことや絶対(といってよいほど)起こらないことを巡らせられるし、どんな夢を見ても許されるから、時空を自由に走り回る。ただし、あちらへあまりにも長居してしまうと、村上春樹の小説を読んだ後みたい。こちらへもどってくるのがたいへんなんだ。

妄想のできごとがほんとうに起きたら、何をしても生きていけるぞぉってムラムラ、妄想のなかの自分はキラキラ、強欲だ、正直こわい。前頭葉だっけか、脳のどこかが正常に機能しつづけてください。天につぶやく。

ふだんの言葉のはしばしから、彼は自分の生活をまるごと変えたがっているのが感じとれる。<島尾敏雄の生きかたが、今の僕の理想だ>と言ったり、何かを依頼すると「詩以外のことで、人の役に立てるのが、僕にはとってもうれしいんですよ」と言ったりする。詩を書くことが<虚妄のなかの虚妄>であることを、熟知している人でなければ、こういう真率で肉化された言葉は出てこないだろう。『茨木のり子集 言の葉 2』(ちくま文庫)

「谷川俊太郎の詩」のこのくだり、とても気に入っている。<虚妄のなかの虚妄>の意味を直接お伺いしたかったぐらい、何度も読み返してああでもないこうでもないと想像している。

卑しい言い方だが空想にお金はかからない。でも空想や妄想がひとたび現実に化けたら、生活と強く結びつく。以前、友人が書いた「生きていかなきゃ。物理的には側にいなくても、大事な人達と繋がってられるように。(中略) お金が必要。」をみて、そんなふうに大事な人達を大切にしていることに強さ(もっと適切な表現があるだろうに…..)をずんと感じた。そう思われている大事な人達にもきっと伝わっていただろう。

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でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
(「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」)

ゆゆしき二行。にがよもぎ。思わず「あれ本当?」と聞いてしまったのだが、「モーツァルトがいやになる日もあるし、ききたくなる日もある。だけどそう書いちゃ詩にならないでしょ? それに第一、みんな告白詩としてしか読んでくれないんだナ」この答えは非常におもしろかった。『茨木のり子集 言の葉 2』(ちくま文庫)

笑った。そうなんだ。虚妄のなかの虚妄。だけど、一篇に一月以上かかるときもあったとの由。一篇一篇が七転八倒の末、生まれる。虚妄であるのにそれだけの時間をかける。

自分なりに言葉と向き合ってみる。言葉は凶器。つくづく感じる。詩人や小説家の性根に圧倒される。誰かひとりでも傷つけているかもしれない可能性に怯まずに書いていること。

私はその性根をまとえていない。<虚妄のなかの虚妄>を直視し、生活と結びついたものでないにしても、言葉は凶器から武器へ少しずつかえたい。否、武器でもない。映像・詩・具現・抽象…..的な心情と情景をならべたい。言葉以外なにもできない。無二への言葉は無限にある。