見ると撮るは違う。見ているようで見ていない。撮っているようで撮っていない。撮ることに夢中になって見逃す。たくさん撮って、ほくほくしながら家路につきパソコンの画面で確かめる。一体何を見ているんだろう。そう感じる。
そんな撮り方はしたくない。撮影を好きで好きでしょうがないんじゃなくて、「なにか」をほしくて撮っているのかも。「なにか」を知りたくて撮っているのかな。それもわからない。
見る、をできるだけ大切に扱いたい。おろそかにしている。
どれだけ見たくても見られない時はある。見逃すまいと見て、視線を置きかねていたら、ちらりと見えた”部分”に吸い込まれてしまったり。
あとから撮っておいてよかった。そんな写真を残せたらうれしい。わずかでよい。
見ると撮るは矛盾しているかな? そんなふうに感じるときも。
その時、その場所で、そこにいる気持ち。なによりも景色の前に置きたい。気持ちをないがしろにしたら、憶い出すときに手を加えるだろう。したくない。
見る。誰と見る。とてもとても大切な時空。
コンプレックスと甘えが入り混じって、夏の琵琶湖の水草のような臭いを放つよりも、今日を過ごして明日を迎える。
必要なければ仕事はなくなる。出せる能力を出し続ける。それでなくなったらそれまで。
懸命であれ。ただ卑屈にならない。生きることそのものに卑屈になったらいけない。自分がもっとも恐れているのはそれだ。そこと対峙する。
ビッグイシューを見かけたら買う。決まった人から買うわけでないが、街角で見かけたら買う。販売していらっしゃる方々は、にこやかに冊子を差し出してくださる。
笑顔に救われる。(困難に直面していらっしゃると想像しながら)どうしてそんな笑顔を浮かべられるんだろう? 心の中で訊ねながら350円をわたす。ちょうどわたせたら妙に心が弾む。いままでは笑顔を見て卑屈になっていた自分がいた。
考えているようで実はそうではなく、迷路のなかに自ら入って、出ようとしない。悪癖。むりして明るくふるまわなくても、毎日をもっと軽やかに懸命であれ。
たった一人。無二。その一人から認められともに在りたい。それが十全の価値。それが唯一の望み。
望みが私心でなく無私であるため、為すため、明日を迎えるため、今日を過ごす。