琵琶湖
diary

文字で書くのもむずかしくない

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たしかなことはなくうつろう暮らし、知らず知らずに決めることを求められる理不尽、とても大きいサイズのプチトマトにそう思う。大げさだろうか、大げさだろう。

年々大きくなっているだろう、こんなサイズのプチトマトしか選べない寂寥。トマトにも思う、なぜ甘いのと。大げさだろうか、大げさだろう。

見えるものを手にとりあれこれ思う。見えるから感じられる。見ているようで見ていなくても、”トマト”は心象されている。かりに見ていなくても赤と思い込んでいる。香りも錯覚する。

ヘレン・ケラーはどうやって心を育てたんだろう。

見えるから見えないことへ巡らせる。心は育てられる。見えないことが心を養う。そう感じるようになって浮かんだ。

詩は心奥の雫を文字へ落として万象を巡る。茨木のり子先生は谷川俊太郎先生の詩を cosmos の愛と評した(正確ではない)。男女の愛、人としての愛ではなく、もっと大きな愛を詩に綴る。

そう思う。たとえば、『愛 Paul Klee に』(『愛について』所収)。朗読してみる。男女にも人間の愛にも受けとめられるけれど、より抽象的な佇まい。美しいと感じた。詩を読んではじめての体験。

もう一つ。『みんな やわらかい』1999 谷川俊太郎 所収の『あい』。はじめて目にしたときの鮮烈な印象。

12行の詩には、「すべて」があった。先の詩と違って何度も読めなかった。読むたびに大きな穴をのぞき込んでいたから。それに向き合えなかった。

信じるや愛するは、「文字で書くのもむずかしくない」し、「ことばじゃない」、そう、ほんとそうなんだ。ことばや文字で考えたらわからない。「信じるとは? 愛するとは?」は問うのではなく、為していくことだと思う。

信じるや愛するのほかにも「文字で書くのもむずかしくない」し、「ことばじゃない」ことはある。見る、を私はあてはめる。

見えないからあらんかぎり捧げて尽くす。やりきる。最後まで。最期まで。届いてもゆらぎは時折おとずれる。そんなときはゆらぎのままで過ごす。

不確かなことのなかにある確かなこと。確かなことは一つと心に決められたら、私の中にある恐怖となかよく付き合える。晴れ、時々”ざわざわ”も心を養う腐葉土。

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