琵琶湖

ずっと勉強していけることを大人になってからわかった

森博嗣先生は、『子供の科学』を小学3年生から愛読していらっしゃる。何かで読んだ。当時、現在進行形だったけど、2016年も進行形なら、約600冊ほどに達してるのかな?

2009年からまねて読み始めた。5年ほど続けてやめた。この先ずっと置いておけるスペースがないから。でも、その理由は、読書中のアドラー心理学に照らせば、自分の行動(『子供の科学』で勉強することをやめたかった)を正当化するために、後から考え出された(と思う)。

子供の質問は鋭い。毎号、質問と専門家の回答が掲載されている。おどろいたり、うなったり。感嘆の連続。「なぜそんなことが思いつくんだろう?」

たとえばこの質問。答えられない。

磁石で方向がわかるのはなぜ? (少4)『子供の科学 2014年5月号』

毎号、特集と「なぜ? なぜ? どうして?」のコーナを楽しみにしていた。

電車の中で私がジャンプする。元の位置に着地できる。どうして? 感覚的には理解できる。でも正確に説明できない。相対性理論の入門書(にも満たさない入門書)を読んでみる。理解できたようで翌日には忘れている。忘れているけれど、電車の中でジャンプしたくなる。勉強はおもしろい。

子供の「なぜ? なぜ? どうして?」はすばらしいと思う。

『子供の科学』を読んでいたら、子供の質問に、いっしょに考えたり、調べたり、見に行ったりすることが、とても大切だと感じる(あるいは想像する)。子供はたくさんの疑問を持っているんだろうな。

森博嗣先生は、小説を書きながら国立大学に勤務していらっしゃった。(この単語を使うのは不適切だけど)天才と尊敬している先生の発想を気に入っている。

つまり、教育には無関心な父親である。
だが、心がけていることがある。子供が勉強している以上に、自分は仕事をしようと思う。子供が遊んでいる以上に楽しく遊んで、「早く大人になって自由に遊びたいな」と彼らに思わせよう、と考えている。一所懸命生きている姿を見せることが、大人が子供たちにできる唯一の教育(この言葉には抵抗があるが)だと今は信じているからだ。(『森助教授VS理系大学生 臨機応答・変問自在』P.22)

この発想も。

勉強しても頭は良くはならない。その事実は教えるべきだ。そのうえで、勉強がいかに大事か、頭が良いことがいかに小事か、を説くのが教育だろう。(『的を射る言葉』P.138)

子供が「どうして勉強しなくちゃいけないの?」ときいてきたら、親は「うるさい勉強中だからあとで」と答えよう。(『的を射る言葉』P.162)

もしも自分が親なら、説けないし、絶対に言えない。でも発想がとてもステキ。読み返すたびに感じる。

一所懸命生きている姿を見せる。

成績という勉強ではなく、ずっと勉強していけることを大人になってからわかった。机の上だけが勉強ではない。人それぞれにあると思う。

一所懸命であること。

クライアント先のスタッフの方々は、学校の勉強が苦手だったとよく口にされる。よくよく伺ってみると、苦手ではない。勉強の仕方を知らなかったり、関心がなかっただけ。仕方を身につければ、貪欲に勉強していらっしゃる。仕事ぶりが変容する。なかでも継続して勉強している方々からは、多くを学んだ。説明が格段に上手になっていかれる。聞いていてもわかりやすい。

今年は梅の花を観察した。無二のおかげ。梅の花の形が見えてきた。背中合わせで咲く梅もあり、なぜかわからない。色の仕組みを勉強したい。どうしてあんな色に見えるのか。光と波長を知っていても、仕組みを理解していない。

わからないことを調べてみる。調べ方がわからないし、どう調べてよいかわからない。そこから始まる。勉強して、わかれば、その何倍もわからないことがふえる。