琵琶湖
diary

“わからない“にはいろんなニュアンスがあるからわからない

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(私は)善かれと思ってした。でも悪と受けとめられた。ことの大小にかかわらず、一度や二度ならず、ある(と思う)。「善と悪」には、善によきイメージを描き、悪によからぬ響きがあるけれど、善に「独り」がくっつけば、顔をしかめながら「独善的だ」と吐いて捨てられる。

もしも、ほがらかに笑いながら明るい声のトーンで「独善的だ」と指す人が目の前にいたら、微笑みを返すか、おののいて背筋が凍る。言葉と感情がちぐはぐだから。

目は口ほどに物を言う。だんだんわかってきた。目は語る。目の動きが鈍れば、感情の面積が、狭くなってきているかもしれない。目が笑ってない人は、いるんだと思う、たぶん。コワイよ、そんな人、でもいるだろうなあ。

道徳や倫理の周辺に置かれた単語はむずかしい。人によっては、意味を拡張して使っている。

たとえば、暴力。肉体に危害を加える行為。乱暴、無法な力。でも人文学系の専門家が使う「暴力」は腑に落ちない。いや、ちがうなあ、意味を理解できない。前後の文脈から「えっ、ここで暴力がでてくるの?」ってびっくりする。日常的に使う「暴力」とは異なるニュアンスなのはわかっても、文脈から浮いたような感じがして頭の中がかゆい。以前、ある政治家が暴力装置と発言して話題になった。歩がと金に成るように、「装置」がくっついて「暴力装置」と成れば、「暴力」と「装置」の意味は辞書にのっていない。専門用語に近い。

専門用語は、川の上流へさかのぼり、山道を登り、どこからやってきて、現在の用語になったのか、源流を確かめないとわからない。途中でいやになって、あきらめる。滝を登って足を滑らせて、滝壺に落ちたら冷たいし、ケガするし。一つの単語の源流を調べるために、心身を削る。研究者はすごい。

十代のころ、暴力をふるってはいけません、と注意される。暴力は殴る、蹴るの代名詞みたいな印象を持つ。でも、口汚くののしっても、暴力だと自覚できていない。

いまでも自覚していない。ザッピングしてしまい、民放のバラエティに遭遇したところ、運悪く、言葉の「暴力」で笑いをとっている。一瞬、笑ってしまって、すぐさま暴力を自覚して、いやな気分におちいる。

道徳や倫理に関心はない。人を傷つけずに生きていくのは不可能だろう。感覚的にわかる。

(私は、あるいは誰かは)善かれと思っても、周りは悪とする。たとえそうであっても、自分で自分を生きるなら、他者を傷つけていて、これからも傷つける。できるならその傷が小さければよいと願い、小さくしようと努める。

自分自身へ暴力をふるいたくない。道徳や倫理の善と悪を説き、誰も傷つけない、傷つけてはいけないと錯覚するとしたら、自分自身への暴力と感じる。”暴力“を使ってみたら、へんな感じ(読み返してもわからない)。“わからない”には知らない、理解できない、どちらでもない、などいろんなニュアンスがあるから、今回のわからないは、よくわからない。

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