琵琶湖
diary

一つ

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今朝の空は朝焼けを遮っていた。日の出がわずかに見えた。風が立っているからさざめく湖面。琵琶湖の表情は毎日違う。朝と夕でも変わる。

うつろいを望めば、変わりゆく景色に心を重ねる。自然の「ちがい」は、私のなかの「おなじ」を労るように教えてくれる。

人と「ちがう」から言葉を使う。言葉で「ちがい」をあきらかにする。「ちがい」をあきらかにするために使われていた言葉は、「ただしい」を強く言いはるために使われて、高ずれば責めるために吐き出される。いたるところで飛び交う目を背けたくなる、耳を塞ぎたくなる言葉。

「おなじ」だったら、言葉はやさしくあつかわれる。「言葉はやさしくあつかわれる」と口にすることが、今まで使わなかった新鮮な響きであり、すぅっと息を吐くようにそう言ってしまえる。「言葉はやさしくあつかわれる」なんて意味のない言い回しは恥ずかしくて使えなかった。羞恥は消えた。意味のない言い回しでも、感じたことを素直に言えるようになった。

「おなじ」を表すために言葉はやさしくあつかわれ、すくない語彙からかき分けて、言葉を探す。「ただしい」を投げつけないし、責めない。ひたすら純粋にまじりけのない「おなじ」の喜びと幸せを表したくて熱中する。

だけど世間は「おなじ」をさけたがる。「おなじ」からさけるために工夫していたら、みんな「おなじ」装いの雑誌をみているような冗談はあっても、いたって真剣にさけたがっている。

「おなじ」だったら、言葉はやさしくあつかわれながら、言葉は最小限でもよいかも。透明の正方形の箱のなかに白い玉がしきつめられている。ひとつだけ赤い玉がまじっている。それをみつけたら、「ちがうよ」と一言そえる。一言だけで「ちがい」を理解して受け入れられる。それほど高い密度の「おなじ」だったら、言葉は最小限でよいかもしれない。

自然は「ちがい」のあつまり。ちがいすぎておなじを見つけにくい。たとえ人がつくった公園の自然であっても、雅やかな木漏れ日を愛でていれば、「おなじ」が共鳴する。新緑を彩る無数の光と影からお気に入りの組み合わせを見つけられたら、それは小さな奇跡。今日の午後の小さな小さな奇跡は、そう感じさせないほど自然だった。

自然は「ちがい」から不思議を感じさせてくれる。人は「おなじ」から奇跡をたぐりよせる。「おなじ」がもたらす小さな奇跡をからだ中が喜ぶ。最小の言葉と無限の幸福。

「おなじ」が自然であるから比べることはなくなり、「おなじ」ことすら意識から消える。

一つになる。

鶴見緑地

*FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

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