琵琶湖
diary

近くて遠い他者と話す

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2016年から日記は紙へ切りかえた。それまでiPhoneのアプリ(Day One)を使っていた。列車での移動中やニュートラルなときにiPhoneをポケットから取り出して入力しはじめる。Day Oneの画面は入力しやすく、ついつい長めに入力しがち。ひとしきり書いた充実感はあるのに、毎日となると気が進まない。短めに切り上げるとなにか物足りない。怠惰でわがままな性格には文章の腹八分を心がけられなかった。

昨年末、モレスキンの星の王子さまダイアリーを買った。100円ショップのノートと鉛筆1本で始められる日記に見栄をはった。誰も読まないのに。見開きの左側は一週間の日付と曜日。一日に書ける文字数は1tweetより少し多い。右側は自由に書ける横罫。1tweetでおさまらなければ、右側へ付け足す。

紙には制約がある。制約は習慣と発想の土台。

iPhoneと紙。道具を持ち替えた。体は道具に合わせる。Day Oneは「ながら」(空間)と「すきま」(時間)を埋めた。紙は「束の間」(時間)であっても腰を据える(空間)。iPhoneが机の上に置いてあっても、日記を書こうかと手に取らない。机の上に置いてあるモレスキンにはすっと手を伸ばして書きはじめる。

紙とスマートフォン(タブレット,PC)、双方にあるメリットとデメリット。目的に能い、使い続けられる道具を選ぶ。道具は使い続けても使いこなせない。おもしろい。使い続けると使いこなせるは位相が異なるらしい。着古すと着こなすに似ているか、あるいは似ていないか。通底しているとしたらなんだろう。

日記を書く。学生時代は何を書いていた? 型とパターンがまだ定まらない。私は型やパターンを好む。自分の言動の癖と欠点だ。発想の限界でもある。欠点と限界を承知していても、湖岸の定点観測をはじめ、「一つの決まった型やパターンから変化を観察する」行為がとても好きだ。

内田百閒先生の昼はきまって蕎麦、カントの散歩など、パターンのエピソードに弱い。カントが家の前を通ったら家人は時計の針を直したという(たぶん嘘だろうけど)ぐらい決まった時刻に同じ道を歩いたなんて話、わくわくしてしまう。

久石譲さんは、毎朝、コーヒーを入れたら寝起きだけどピアノを弾くとおっしゃっていた(NHK SWITCH インタビュー 達人達 久石譲 x 吉岡徳仁)。クイック(?)をかけながら(?)同じ曲を弾く。すると毎日テンポの感じ方が違うとのこと。早く感じたり遅く感じたり。「同じ曲で同じテンポで何も変わっていない」のに「こちら(弾く人間)の感覚は毎日変化している」とのこと。だから「その感覚をあてにしながら観客相手にコンサートなんてできない」から「自分の感覚をまったく信じていない」「人間の感覚ほどあてにならないものはない」とおっしゃっていた。レトリックであり、感覚について「最後の最後で信じるんだが、過程で信じない」という意味。「自分の中にある知識や体験などの集積であり、何を学び、何を体験して自分の血肉としてきたかが、論理性の根本にあって、感性の95パーセントくらいは、実はこれなのではないか」と著作で述べていらっしゃる(『感動をつくれますか?』)。

現在の日記は、型とパターンが定まらず模索中。いまは即興で書く。前後がつながらなかっても気にしない。支離滅裂に書けるのに無制限な自由は不自由。発想が貧しい。

でも日記は書くよりも読み返す方が手強い。書くのに慣れても書きっぱなし。なかなか読み返さない。日記の底力は「読み返す」だと思う。

日記の過去は近くてもっとも遠い他者と会話しているような感覚。数ヶ月前を読み返す。すでにその気持ちは消え去っている。刹那。あてにならない。本心か虚栄かわからない。なにが言いたいのか首をかしげたり。

毎朝、目が覚めたら質問するまでもなく私なんだけど、私は私と無意識に作業している。すごい。日記みたいに「これほんとに私が書いた?」と確かめるまでもなく毎朝の私は私。

日記から教わった。自分は私からもっとも遠い他者。私は自分を理解できていない。他者を理解するのはもっとむずかしい。理解できないからこそ、感情を分かち合える人、感じ方を分け合える人、同じことを考え思える人に出会ったとき、その他者は私にもっとも近くてかけがえのない存在なんだと肌でわかる。

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