琵琶湖
diary

嫉妬には公式はないし解もないからね

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嫉妬(を抱くこと)は数学みたい。問題を解くために理屈を理解しようとしてもわからない。しっちゃかめっちゃかである。自発的に解きたくない。問題を差し出されたから解いてる。大人になったら数学から解放されるけれど、嫉妬は抜き打ちテストの連続。公式はない。解もない。まことに厄介だ。

私は嫉妬している! その瞬間を自覚できた。毎度そうでもあらず。蚊に刺されたみたいに後から気づく嫉妬もあり。うっかり掻いてしまってびっくり。大きくなった嫉妬。落ち込む。塗り薬はない。

なぜ嫉妬するのですか? 子供の科学の大人版があったら質問コーナへ投稿してみたい。もし科学が嫉妬を解き明かしてくれたら、サイエンスアウトリーチの出版物を読むだろう。仕組みを理解できて満足したら、人様の前でおならをがまんできるぐらいの慎みを身につけられるが、明日からまた嫉妬しているはず、きっと。

自分の嫉妬は、「比べる」から発露しているようだ。心的や物的に関わる能わずこと、叶わぬこと、得られないこと。それを認識したときに嫉妬する。

だったら物質の場合、能えば、叶えば、得られれば、嫉妬は消滅するか。消えてなくならないから始末に負えない。物質でそうであるから心的な連関ならば、もうにっちもさっちも行かない。

「比べる」は知るからである。知らなければ比べられない。知らなければよいのに幸いにも想像力をわずかでも授かった。想像して「比べる」こともある。想像にも品質がある。粗悪な想像は空想となり、空想が過激に強化された妄想の塊は自分に向かって転がり落ちてきて奈落へ落ちる。

「比べる」は嫉妬の種を育てて徒花を咲かせる。一方で自分を支える根にもなり得る。

「とと姉ちゃん」の戦時中の描写を目にして今の暮らしと比べる。今が贅沢だと納得する。心の底から納得していなくても、電車が揺れたときに両足にぐっと力を入れて耐えられるような瞬発力の納得を与えてくれてぐらつかなくてすむ。戦前その日暮らしが続いた小橋家と裕福な中田家。戦後の境遇は激変する。常子さんも綾さんも貧しいのに、なにが幸せかを問いかけてくるような物語の展開。お二人の境遇を比べてしまう。

ETV特集 アンコール「生き抜くという旗印~詩人・岩崎航の日々~」を見尽くしたあとの気持ち。比べたらダメ、アカン。そう言い聞かせてたところで頭は比べている。五体満足の私、一体なんの不満があると。やがて肉体や境遇を比べなくなり、かわりに沸き立つ自分の言動への焦り。岩崎さんへの敬意。五体満足、不自由なく働ける。食事も排泄も自分でできる。行きたいところへ行ける。にもかかわらず何もしていない私。無為徒食。自分への甘え。岩崎さんの五行詩にふれた人は生きる勇気を授かり、希望を抱いて明日を迎える。作家として歩いていらっしゃる。これも嫉妬の発露。嫉妬の一種だ。

誰かとあるいは誰かの物と、はたまた漠然とした「何か」と私を比べたとき、「私もそうなりたい」と具体的に実感しない。「ない」からものさびしく感じ、「ある」から満たされるわけでもない、得たいの知れないわがままが心を支配する。傍若無人の血流。

嫉妬で心を腐らせる。自分でまいた種。自分で刈り取る。刈り取りたくなければ嫉妬しつづける。それは自己愛の変形かもしれず、自分を可愛がりたいから嫉妬し続けているのかもしれない。嫉妬の深淵をのぞきたいと露にも思わない。もっともこわいのは他者を傷つけること。嫉妬して他者を傷つける。嫉妬がふりかざす言葉は、他者へ傷跡を残しかねない。勲章の傷跡ではない。思い出すたびに漆黒の闇へ突き落とす傷跡である。

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