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こっぱみじん :cry:

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Skypeはじめました

いまさらですが、Skypeをはじめました。イヤホンとマイクはPLANEX Bluetoothミニヘッドセット BT-05HS。ワイヤレス(Bluetooth)で耳にひっかけるだけ。ちょっと近未来チック。

このブログの右サイドバーにステータスを表示してます。IDは屋号です。

営業時間はあってないようなもので、オンラインのときに何かあればいつでも連絡ください。なにせ「無料」ですから。

で、Skypein を利用して月額300円で050番号を取得しようかと思案中。ただいま固定電話を廃止の方向で交渉中ですが、パートナーはなかなか首をタテにふらず。

ほんま固定電話いらんて。

追記:

検索経由の方へ、MacBook Proで使ってます。あっさり接続でき拍子抜け。

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言葉の主人

批判と自己言及のつづき。

「批判」は商品になったのかもしれない、と書いた。違うなぁと思いつつ。書いた。ケツふかなきゃ。統計なんてない、単なる感覚。ひとむかし前、「言葉はチカラ」があった。喧伝した新聞社の系列テレビは「言葉のチカラ」を誇示。誰かに「消費」させるために(参照: 古舘伊知郎氏はネタにされて視聴率を稼ぐ 報道ステーションの戦略)。

批判する人(当然私も含めて)の強みは言葉の主人が「自分」である点。批判はそれ自体なにも創造しない。創造をスルーして立て板に水のごとく単語を紡ぐ。何を批判して、あるいは何を話すか、すべてあらかめじめ理解している。予定調和。だから、批判している最中に「自分の声に耳を傾ける」仕草はない。自分の声が他者に届いて、やがて他者を起点に自分へ帰還するなんて夢にも想像しない。

私が畏怖する人々は共通している。創造。オリジナリティーじゃない。無から有、有から有、どちらでもかまわない。創造する人の言葉は「言葉」が主人。「自分」じゃない。だから、自分が次に何を語るかわからずにめちゃくちゃ。でも、その言葉が他者を魅了する。創造する人の入力と出力は一対一の関係にあらず。

言葉が私の主人

「言葉」を表現手段にしてしまうと、言葉をあやつる<私>が表出する。脳が司る。身体を動かせば気づく。言葉は欲望と絶望、不信と信頼のコイン。言葉が表現手段なら言葉にできないとき「何を」批判するのか。そもそも批判を構築する思考は調達されるのか?

言葉が私の主人で、言葉は私を閉じ込める。私の空間は「言葉」に囲われている。その囲いの外側から私を眺めようとしても、それは「言葉」の外側にある。

一番最初に言語を発した人は何を発声したのか私は知らない。「言葉」が持つ絶対不可視の出発点。

言語の境界が私の世界の境界

われわれに考えることのできないものをわれわれは考えることができず、したがってまた、われわれに考えることのできないものを語ることもできない。[...]世界とは私の世界である、ということは、言語(私の理解する限りでの言語しかない)の境界が世界の境界を示すという事実に現れている。形而上学的な主体は世界に帰属するものでなく、世界の境界なのである。論理哲学論考(ちくま学芸文庫) P.168

ラッセルの序文。論考もさっぱりだし、この序文もチンプンカンプン。まいった。思考をそのままパクった。

ただパクっただけでは芸がないのは承知。でもパクってやる。そして書きながらまたとんでもない批判が浮かぶ。

「自分の言語の境界が世界の境界」であるという認識を獲得させてくれるのは他者との対話であり、他者は「言葉の檻」から私を脱出させてくれる鍵をもっている、なんてね。あるわけないか。

他者との対話に絶望があり、その絶望の向こうに<私>を理解する欲望があるのじゃないかな。

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古舘伊知郎氏はネタにされて視聴率を稼ぐ 報道ステーションの戦略

「アダルトチルドレン」発言で、古舘氏が謝罪 – MSN産経ニュース

古舘氏の説明によると、問題の発言をしたのは、13日放送の「18歳は成人か」というニュース。古舘氏は「大人になりきれていない子供」という意味で「アダルトチルドレン」を使った。しかし、アダルトチルドレンは一般的に、アルコール依存症の親に育てられるなど機能不全家庭で育ち、成人になってもそうした体験が心的外傷として残っている人を指す言葉。古舘氏は14日の同番組の最後に、「本当に苦しんでいる人に申し訳ない。以後気をつけたい」と神妙な面持ちで謝罪した。

このブログに数件ながら毎日アクセスされるエントリーがある。3年前に書いたので読み返すと、フルチンで町中を滑走している気分。

古舘伊知郎氏はセルフチェックしてないの?

冒頭の記事とリンク先のエントリー、ブログ界隈に転がっているコメントから妄想すると、報道ステーションの視聴率は、「ニュースを視たい人が視る」のではなく「時事を批判する古舘伊知郎のコメントを聞きたい」ために成立しているのかも。

さらに妄想を。

「今日の古舘伊知郎め、またトンチンカンな知ったかぶりをしやがって。お前が勝手に言い散らかしているだけだろ」とテレビの前でツッコミいれて、「オレはお前と違うぞ」と自分のブログに書いたり他人のブログにコメントしたり。そして溜飲が下がる。

ひょ、ひょっとしてコレはニュースの新しい戦略なのか。視聴率の稼ぎ方。「報道」ではなく、「報道をネタに批判する人」と「報道をネタに批判する人をネタにする人」との丁々発止。そんな気がした。

制限時間内にインパクトのある言葉

古舘伊知郎氏の謝罪を報じた記事をながめて、映像を視てないにもかかわらず「知ったか」すると、氏は自分が無知だなんてもちろん認識していない。チャンネルを切り替えた途端、画面で遭遇すると、「ずいぶんいいスーツを着ているな」と思う。その瞬間、氏の口から「格差」なる言葉が飛び出し、あやうく飲みかけのビールを画面にカブキしそうになった。

「スーツ」と「格差」のパラドックス。認識は主体と客体を分離して、次数をあげた空間から両者を眺めることだと勝手に思っている私からすると、「スーツと格差のパラドックス」を解いていない氏に「認識」は備わってないなぁと思う(じゃぁ、ボロボロのスーツかというかとそうじゃないけど)。Love your suites.

「いいスーツを着ている人」が「格差」と訴えても耳を傾けてくれない。それを身体で理解していない。わかるはずない。そもそも「わかる」必要がない。

テレビは制限された時間にインパクトを与えなくちゃいけない。だとしたら、「沈思黙考」や「常識」なんか邪魔になるだけ。数秒から1分程度でインパクトを。どれだけ、「へぇ、そうなの?」と思わせるように言葉を販売する。

報道じゃなく言葉をセールスする番組

言葉をセールスする番組だから言葉を仕入れなくちゃならない。おまけに在庫をもてない。カンバン方式だな。だから、てっとりばやく「カタカナ」や「平積み」のトレンディーかつトリビアルな単語、あるいは「デタラメ」や「懐古」みたいな自己陶酔できる形容詞を口にする。

報道番組としてながめると、「言葉の一義性」と「言葉の多義性」が対立する。古舘伊知郎氏が「格差」と言えば、彼にとっての格差は一義的。でも、「格差って?」と懐にいれて大切にしている人は多義的。

言葉を多義的に感じて受け入れる人は、「そもそも」からはじまる。

でも、氏ははじまらない。これも、「そもそも」からはじめる必要がない。

本日の「格差」は105円 本日の「汚職」は210円

スーパーマーケットには豊かさの象徴が並んでいる。たくさん輸入してきてたくさんの物を並べる。「たくさん」に価値を見いだす。「中国」のラベルと「国産」のラベル、その違いは価格であっても、「差異の理由」を追求しない。

古舘伊知郎氏の報道は、「本日の格差は105円です。あ〜、汚職は210円ですね」と受け止めればなかなかオモシロイ。おっ、今日は安いな。ただのシグナル。意味はない。

だから報道番組として眺めるのじゃなく、チラシを見て笑えるぐらいのゆとりを持てばいいのかも。報道ステーションのスタッフも報道番組と認識していないから、マクドナルド元店長代理証言でアサヒるわけで。

コメディー、いや違うな。「報道をネタにした新たなトーク番組」みたいな仕込みありの新ジャンルとして目を細めてニッコリしているのがストレスフリーですね。

なにせ「ネタ」のご時世ですから。

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批判と自己言及

F先生の批判社会 を拝読。はじめてお目にかかる言葉をたくさんもらった。うれしい、ぼちぼち学んでいきます。批判が社会を喰い尽くすを読み返していつもの命題に突き当たる。

自己言及のパラドックス

三十路に抱えた命題。遅すぎるだろというツッコミは堪忍してください。当のエントリー自体が「批判」であるから、またその批判も社会を喰い尽くす。手強い相手だ。

踏み込むなら「批評と批判」を峻別して書かないと。でも書けないからスルーさせていただきます。そんな難題を解ける知性を宿してないので。

で、「ことば遊び」に戯れる。

命題の証明を担保するのは誰?

批判する人は、「ある命題が真」を証明するぞとがんばる。「医療、学校、役所といった公器を批判すれば、その批判によってシステムの脆弱は改善され効率が向上し利益を享受できる。だから我々の怒りは正当だ」という前提にたって証明しようと奮闘する。だけど、その証明が妥当性であるかどうかを判断するのは、「批判する人」じゃない、と私は思う。批判する人が定めた前提から証明まで、それを批判する人自身が「判断」してしまっている。他者の承認が欠落していないかなぁ。

判断するのは、「神の手」といったり、今なら「市場」とか。変数に市場が代入されると「原理主義」のスイッチがオンされて闘争がスタート。

独断と偏見。「ある命題が真」という証明を担保しているのは「全体知」。それは鵺のような存在。そしたらまた最初の命題に突き当たる。じゃぁ「全体知が真である」という証明を誰が担保するのか。誰にもできないだろう。それを「神」と代入しないでね(笑)

担保しようとすれば循環論証にストンと落ちる。

「全体知は真だ。だから正しい。なぜ正しいかというと真だからだ」

むちゃくちゃだ。でもありうる?! だって、結局、自分の耳と鼻と目と口、そして手足から「判断」しないと生活できない。ややこしい。

事実はひとつという誤謬

「事実はひとつ」だろうか? 事実はどこから発生して何に依拠しているのだろう?

社会はときに願望を「事実」と認定してしまう。ぱっと思いつくところでは、マイナスイオン とか。先頃、「科学的根拠なし」と東京都から勧告された。「東京都」ですよ。でも、どこかで「効果」を願望してたりしてへんかった? 社会の願望が閾値(それを定量化できるかどうかは謎)を超えたとき、願望が「事実」に。

ここ数年かな、ニュース番組を吟味するようになった。怖いから。映像と解説が懇切丁寧に流され、ときに批判もインストールされている報道番組。だけどそれらは「事実」なの?

「それはあなたたちの事実であって私の事実ではないのかも」

と気づいた。バカと己を罵る。いまごろ気づいたのかと。何度も。しつこく。マゾか、というとそうでもない。どちらかというとサド。ただ己の愚考はトコトンMの悪寒。せめるよ、己の馬鹿さ加減。ときに被害妄想が膨らむと、「それはF館さんやT紫さんの「意見」だろう」と暴れたり。こわいよな。自分の頭の中って。

BSやCSに加入していないのでNHKの19:00のニュースかニュースJapanぐらいだと、「そのまま」流すのは。これも自分で判断しただけで他人は違うだろうし。

批判の商品化

どうしてこれだけ批判が跋扈するのかな。それは先のエントリーでもふれた「批判のテンプレート化」。「おや、オレはこんなこと考えていたのか」と訝りながらキーボードを叩いていた。

批判がテンプレート化され、アクセスフリーになるとコピー&ペーストで商品化できる。ひょっとすると、批判は「商品」になったのかもしれない。購入して「消費」しちゃう。消費しちゃえば何も残らないし「言葉のチカラ」と喧伝するだけあってエコ。「何も創造しない」から。

批判が商品として成立するのは「市場」があるから。「価値」があると誰かが判断したから「市場」に投入される。そして「市場価値」に変換して形成されゆく。

でも、「批判が市場価値として成立する空間」そのものを問うなら、「批判」以外のたつきの道を私は確保しなくちゃいけない。「立ち位置が違うよ」というポジショニングトークでは「「批判が市場価値として成立する空間」の「中」にいる。自己撞着。

ただそのたつきの道を「言葉」にできないし、どういうふるまいがたつきの道であるのか。それを私は知らない。だからやっかい。

で、もう少し書きたいけどここまで。続きはのちほど。次は「批判する人」を司る「言葉」についてもがきたい。

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どんな生活しているの?

そういえば、ちょっとまえに「どんな生活しているの?」って聞かれた。キョトン。トピックスがとっちらかるのと意外な番組がでてきたりするからみたい。わかりませんねぇ、自分でも。質問した人のとなりにいた人は、「興味の対象が広すぎる」と笑っていましたが、それは間違い。私は「まったく興味がありません」、何ごとも。

全部ネタです。何のネタか。それは、「事象にふれて私が何を出力するのか?」という<私>にしか興味がない。これだけ。ねっ、どうしようもないエゴイストでしょ。

あと情報収集はフィードリーダーを使ってます。

Continue reading…

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批判が社会を喰い尽くす

大阪府の救急6病院が撤退 受け入れ不能問題が影響か

救急患者が複数の病院に受け入れを断られた末に死亡するケースが相次いだ大阪府内で、府が指定する「救急告示病院」270施設のうち6カ所が、今年に入って救急部門から撤退していたことがわかった。医師不足から夜間・休日の救急態勢を維持できなくなったのが主な理由。特に府南部で救急病院の減少が目立っており、患者の収容先探しが一層、困難になる恐れもある。

マスコミの方々はわかっているはず。「自分たちが批判すればするほど市民に悪影響を及ぼす」と。まさか、「批判すればするほどシステムは効率的に改善され市民に還元できる」と誤解していまい。もし誤解しているなら確信犯。

知識人は口々に「医療」を批判する。「人」を批判していない、「組織」を批判しているという自負。「公器」であればあるほど批判を強める。

年金もしかり。「年金制度は崩壊している」と電波にのせる。電波にのせられて「風評」はそのまま受け入れられる確率が高い。「風説の流布」になるわけもなく、若者の身体をつきぬけ、「ほらね、また年金納入率が下がったでしょ」と誇らしげ。よもや自分が「年金制度を崩壊させている」とは夢にも。

「医療」も「年金」も電波にのせて意気揚々と語る人は「再建策」を提示しない。「それを考えるのは公器だ」と言わんばかり。

批判=改革の信仰

医療、学校、役所といった公器を批判すれば、その批判によってシステムの脆弱は改善され効率が向上し利益を享受できる。だから我々の怒りは正当だ。その明確すぎるロジックをもって「モンスター」は学校や医療の現場へ足を運ぶ。

この批判する人たちは共通している。「組織」のなかに「人」がいるという前提を知らない。「組織」を改善しようと勤しむけどそんな「組織」はどこにもない。人が組織というラベルをしょってるだけ。組織そのものが「意味」をもってシステムを作動させているのじゃない。それを知らず「組織」を攻撃、当の組織は何ら変わらず、「中の人」が抜けていく。そして、「組織」は残る。

「私が批判すれば、”私以外”の人がシステムを健全化させる」という当事者意識の欠落。

批判のテンプレート化

そしていまや「批判」はテンプレート化され、誰でも利用できるようになった。アクセスフリーの批判。

批判の構造は、批判される「対象」があってはじめて成立する。「対象」というのは「受け止める人」。「組織」じゃない。なのにその「批判を受け止める人」を再生産する力を「公器」は失いつつある。危機は公器の「内部」にまで浸透している。「公器」の中の人がひとたび公器から抜け出したら批判する。仕事でクレームを受ける人が余暇でクレームをつけるように。

眺めてみたい。社会の成員が「批判する人」になったとき、「何を」批判するのだろう?

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IE7は勝手にインストールされない

IE7の自動更新にふれたときに「自動更新でインストールしないように設定を変更したほうが吉」と書きましたが間違いでした。すみません(-_-;)

「強制的にはインストールされない」——徹底解説「IE7の自動更新」

マイクロソフトは2008年2月4日、最新Webブラウザー「Internet Explorer 7(IE7)」の自動更新を解説するWebサイトをオープンした。2月13日以降、Windowsの自動更新機能を有効にしているパソコンでは、IE7が自動的に配布される。ただし、勝手にインストールされることはないので心配無用。自動的に行われるのはダウンロード(配布)まで。インストール時にはユーザーに指示を求めるダイアログを表示する。

「ダウンロード」までのようですね。マシンの対象はIE7がインストールされていないWindows XP SP2およびWindows Server 2003 SP1。おどろいたのは

自動更新機能は、パソコンやネットワークの利用状況を見て、ユーザーの作業に影響を与えないように少しずつダウンロードする。このため、ダウンロードが完了するのは、2月14日以降になる可能性がある。

膨大な台数が自動更新の対象になっているということでしょう。「保留」やアンインストールも可能のようで

  • インストール作業を保留したい場合、IE7のインストール選択画面で「後で確認する」を選ぶ。
  • 「インストールしない」を選択すると、当然IE7はインストールされない(Windows Updateなどでも表示されなくなる)。
  • アンインストールしたい場合には、スタートメニューの「コントロールパネル」から「プログラムの追加と削除」を選択し、「Windows Interntet Explorer 7」を選んで「削除」ボタンを押す(IE6にもどる)。

さて、2月13日以降のアクセスログが楽しみ

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IE7が自動更新で配布されるようで

いよいよIE7が自動更新で配布されるとのこと。これでいまわしいIE6のレンダリングからいくぶん開放されそうな予感。

マイクロソフト、2月13日よりWindows XPに自動更新でIE7を配布

マイクロソフトは2月13日、Windows XP(SP2)/Server 2003(SP2)向けに「Internet Explorer 7日本語版」の自動更新による配布を開始する。これに先立ち、同社は2月4日にIE7の自動更新に関する告知サイトを開設した。

IE7はタブブラウジングを採用して単一のブラウザ ウィンドウで複数のサイトを表示することができる。FirefoxOperaを使ってる人にはデフォルトなんですけど、IE6ユーザーははじめましてなので最初はとまどうかも。でも、慣れたら二度と手放せません。

ただしIE7に移行してしまうと、一部のWebサービスが対応していないため利用できない可能性もあり。Microsoftによれば、銀行やオンライントレードなど国内の主要なWebサービスがIE7に対応したことを受けての自動更新らしいので大丈夫なのかもしれません(笑)

心配な方は自動更新でインストールしないように設定を変更したほうが吉。

たぶん、

「どうしてくれるんだ! 勝手にインストールしやがって。おかげでWebサービスが利用できないじゃないか!!」

と怒りのクレームをポストしても「仕様です」の返事が返ってくるでしょうし。

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歯で気付こう

児童虐待:「歯で気付こう」三重県歯科医師会の訴え奏功

歯で虐待に気付こう--。三重県歯科医師会と同県がネグレクト(育児放棄)などの虐待を受けている児童に虫歯が多いことなどを歯科医たちに伝え、検診時の対応マニュアルなどを配布したところ、歯科医の関心が高まって実際に通報するケースが増えてきたことが分かった。同会と県がこのほど津市で開いた「日本子ども虐待防止学会」で報告した。歯科医の意識向上が児童虐待の早期発見につながることを示す例として注目される。

「検診でネグレクトの疑いを持ったことがある」と回答した歯科医師は4割にのぼるとのこと。虐待を受けた児童の虫歯経験率は通常の1.5倍、処置率は約1/4。ということは、「むし歯になるけど歯科医院につれていってもらえない」わけです。

もっと踏み込むなら、「歯の磨き方」を教わっていないかもしれないし、食べ物もどうかなぁと。

こどもは「自分の歯を守れない」というより命の意識をもっていないと思う。だから「教わる」のじゃなく「からだと歯」を体感してほしい。こどもの「命」を脅かす存在を絶対許さない。

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