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言葉の主人
- 2008-02-15 (金)
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批判と自己言及のつづき。
「批判」は商品になったのかもしれない、と書いた。違うなぁと思いつつ。書いた。ケツふかなきゃ。統計なんてない、単なる感覚。ひとむかし前、「言葉はチカラ」があった。喧伝した新聞社の系列テレビは「言葉のチカラ」を誇示。誰かに「消費」させるために(参照: 古舘伊知郎氏はネタにされて視聴率を稼ぐ 報道ステーションの戦略)。
批判する人(当然私も含めて)の強みは言葉の主人が「自分」である点。批判はそれ自体なにも創造しない。創造をスルーして立て板に水のごとく単語を紡ぐ。何を批判して、あるいは何を話すか、すべてあらかめじめ理解している。予定調和。だから、批判している最中に「自分の声に耳を傾ける」仕草はない。自分の声が他者に届いて、やがて他者を起点に自分へ帰還するなんて夢にも想像しない。
私が畏怖する人々は共通している。創造。オリジナリティーじゃない。無から有、有から有、どちらでもかまわない。創造する人の言葉は「言葉」が主人。「自分」じゃない。だから、自分が次に何を語るかわからずにめちゃくちゃ。でも、その言葉が他者を魅了する。創造する人の入力と出力は一対一の関係にあらず。
言葉が私の主人
「言葉」を表現手段にしてしまうと、言葉をあやつる<私>が表出する。脳が司る。身体を動かせば気づく。言葉は欲望と絶望、不信と信頼のコイン。言葉が表現手段なら言葉にできないとき「何を」批判するのか。そもそも批判を構築する思考は調達されるのか?
言葉が私の主人で、言葉は私を閉じ込める。私の空間は「言葉」に囲われている。その囲いの外側から私を眺めようとしても、それは「言葉」の外側にある。
一番最初に言語を発した人は何を発声したのか私は知らない。「言葉」が持つ絶対不可視の出発点。
言語の境界が私の世界の境界
われわれに考えることのできないものをわれわれは考えることができず、したがってまた、われわれに考えることのできないものを語ることもできない。[...]世界とは私の世界である、ということは、言語(私の理解する限りでの言語しかない)の境界が世界の境界を示すという事実に現れている。形而上学的な主体は世界に帰属するものでなく、世界の境界なのである。論理哲学論考(ちくま学芸文庫) P.168
ラッセルの序文。論考もさっぱりだし、この序文もチンプンカンプン。まいった。思考をそのままパクった。
ただパクっただけでは芸がないのは承知。でもパクってやる。そして書きながらまたとんでもない批判が浮かぶ。
「自分の言語の境界が世界の境界」であるという認識を獲得させてくれるのは他者との対話であり、他者は「言葉の檻」から私を脱出させてくれる鍵をもっている、なんてね。あるわけないか。
他者との対話に絶望があり、その絶望の向こうに<私>を理解する欲望があるのじゃないかな。
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批判と自己言及
- 2008-02-10 (日)
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F先生の批判社会 を拝読。はじめてお目にかかる言葉をたくさんもらった。うれしい、ぼちぼち学んでいきます。批判が社会を喰い尽くすを読み返していつもの命題に突き当たる。
三十路に抱えた命題。遅すぎるだろというツッコミは堪忍してください。当のエントリー自体が「批判」であるから、またその批判も社会を喰い尽くす。手強い相手だ。
踏み込むなら「批評と批判」を峻別して書かないと。でも書けないからスルーさせていただきます。そんな難題を解ける知性を宿してないので。
で、「ことば遊び」に戯れる。
命題の証明を担保するのは誰?
批判する人は、「ある命題が真」を証明するぞとがんばる。「医療、学校、役所といった公器を批判すれば、その批判によってシステムの脆弱は改善され効率が向上し利益を享受できる。だから我々の怒りは正当だ」という前提にたって証明しようと奮闘する。だけど、その証明が妥当性であるかどうかを判断するのは、「批判する人」じゃない、と私は思う。批判する人が定めた前提から証明まで、それを批判する人自身が「判断」してしまっている。他者の承認が欠落していないかなぁ。
判断するのは、「神の手」といったり、今なら「市場」とか。変数に市場が代入されると「原理主義」のスイッチがオンされて闘争がスタート。
独断と偏見。「ある命題が真」という証明を担保しているのは「全体知」。それは鵺のような存在。そしたらまた最初の命題に突き当たる。じゃぁ「全体知が真である」という証明を誰が担保するのか。誰にもできないだろう。それを「神」と代入しないでね(笑)
担保しようとすれば循環論証にストンと落ちる。
「全体知は真だ。だから正しい。なぜ正しいかというと真だからだ」
むちゃくちゃだ。でもありうる?! だって、結局、自分の耳と鼻と目と口、そして手足から「判断」しないと生活できない。ややこしい。
事実はひとつという誤謬
「事実はひとつ」だろうか? 事実はどこから発生して何に依拠しているのだろう?
社会はときに願望を「事実」と認定してしまう。ぱっと思いつくところでは、マイナスイオン とか。先頃、「科学的根拠なし」と東京都から勧告された。「東京都」ですよ。でも、どこかで「効果」を願望してたりしてへんかった? 社会の願望が閾値(それを定量化できるかどうかは謎)を超えたとき、願望が「事実」に。
ここ数年かな、ニュース番組を吟味するようになった。怖いから。映像と解説が懇切丁寧に流され、ときに批判もインストールされている報道番組。だけどそれらは「事実」なの?
「それはあなたたちの事実であって私の事実ではないのかも」
と気づいた。バカと己を罵る。いまごろ気づいたのかと。何度も。しつこく。マゾか、というとそうでもない。どちらかというとサド。ただ己の愚考はトコトンMの悪寒。せめるよ、己の馬鹿さ加減。ときに被害妄想が膨らむと、「それはF館さんやT紫さんの「意見」だろう」と暴れたり。こわいよな。自分の頭の中って。
BSやCSに加入していないのでNHKの19:00のニュースかニュースJapanぐらいだと、「そのまま」流すのは。これも自分で判断しただけで他人は違うだろうし。
批判の商品化
どうしてこれだけ批判が跋扈するのかな。それは先のエントリーでもふれた「批判のテンプレート化」。「おや、オレはこんなこと考えていたのか」と訝りながらキーボードを叩いていた。
批判がテンプレート化され、アクセスフリーになるとコピー&ペーストで商品化できる。ひょっとすると、批判は「商品」になったのかもしれない。購入して「消費」しちゃう。消費しちゃえば何も残らないし「言葉のチカラ」と喧伝するだけあってエコ。「何も創造しない」から。
批判が商品として成立するのは「市場」があるから。「価値」があると誰かが判断したから「市場」に投入される。そして「市場価値」に変換して形成されゆく。
でも、「批判が市場価値として成立する空間」そのものを問うなら、「批判」以外のたつきの道を私は確保しなくちゃいけない。「立ち位置が違うよ」というポジショニングトークでは「「批判が市場価値として成立する空間」の「中」にいる。自己撞着。
ただそのたつきの道を「言葉」にできないし、どういうふるまいがたつきの道であるのか。それを私は知らない。だからやっかい。
で、もう少し書きたいけどここまで。続きはのちほど。次は「批判する人」を司る「言葉」についてもがきたい。
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感謝と反省
- 2007-12-07 (金)
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昨日、大阪のF先生へお伺いする。サイトの打ち合わせとはいえ、私の製作が遅々として進んでいない。それを負い目に感じつつ医院へ。
打ち合わせでのF先生は、私に余計な負荷を微塵も与えまいと穏やかに応じてくださった。それが何よりもありがたい。
別段、サイトのページそのものを打ち合わせするのじゃなく、F先生とスタッフのYさんをまじえて、「歯科医療」について行き交う。「」に括ったのは理由がある。
便宜上、「歯科医療」と表記したけど、実態は「まだ生成されていない言葉」で茫々たる医療。医療と表記するのも憚られる。
そこにF先生を核としたF歯科医院のチームが伝えたい、実践したい「現場」がある。現場のいきいきした顔ともどかしい身体をどれだけ受け止めて表現できるか。そこに私がかかわる意味がある。意味というよりも私はそこしかかかわれない。
そのあと、医院のみなさんと酒酌み交わす。みなさんお疲れのところ、F先生は心身ともに鞭を打っておられるにもかかわらず、深夜まで。
医療はもちろんのこと、果てはここで書いてはマズイことまで(すみません、居酒屋で)。おまけに私自身の恥まで気持ちよさにかまけて口をすべらせてしまった。
言葉は有限だ。なのに言葉を連結させた意味、その裏側にある考える私は無限。他者は無限の外側に立つ。絶望の向こうにいるわからない存在。「見えている」のに「視えない」存在。その方々を経由してしか私を体感できない。
言葉を知れば知るほど、ことばのあやうく、もろく、じれったい、もどかしい顔がすっと現れる。その瞬間、「語れない」と「聴けない」が同時にふりかかる。
すると沈黙はやってくる。でも、その沈黙を受け止めてくれる人たち。沈黙をおそれないから、大声で語る喜びを知る。自分の意見を言いっぱなせるおだやかな空間、それが心地いい。たおやかな時。
やがて、自分の語りが閾値を超えたとき、語りすぎた自分に気づき反省。秘すれば花という。言わぬが花というのか。そして自分が発した言葉の無責任さに打ちのめされる。言葉というおそろしい凶器、何食わぬ顔で凶器をあつかう私。
感謝と反省、この循環が答えのない問いに我慢する力を涵養する。
だからダイアローグ、ひとりで聴けないし、ひとりで語れない。
ほんとうにありがとうございます。そしてとってもステキな時間と空間と酒と食をごちそうさま。
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言葉を奪う者
- 2007-10-03 (水)
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言葉を奪う者に何が与えられるのだろう?
なんてフト考えた。まぁ、きっかけはあるんです。自分も含めて、「言葉を奪っている」と自覚がない。認識できない。「何かしゃべる」があたりまえのヒトにとってよぎりもしない。あくまで”しゃべる”です。としたら、やっかいだな。そもそも「言葉を奪う」とは何か? を煎じ詰めないといけない。でも、なんとなく空気があって、体感の感度が高いと、わかったりする。100発100中ではない。ああ、今奪ったな、と。
この場でこの時この言葉を自ら口にする理由がないのに口にする。その裏側には沈黙をおそれる自分。”しゃべる”という行為をもってして「あなたのことを理解してますよ」と自己弁護したい。断定はイカンですけど。
でも、そういう言葉はたいていストックフレーズですよ。相手からナマの言葉を絞り出したいために心底のたうちまわったうえに発話されたのではない。絞り出そうとするフレーズは、「聴くように伝える」みたいなもので、おそらく無意識にでるもの。と、なんとなく最近考える。
沈黙をおそれる者と言葉を奪う者に与えられるモノは何か?
ということでまた書き散らした(『身体から革命を起こす』)
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たたけたたけたたけたたけ
- 2007-09-13 (木)
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asahi.com: 「翼短かったタカ」… 安倍退陣、海外メディア辛らつ
- 英フィナンシャル・タイムズ: 「武士道ではない、臆病(おくびょう)者(チキン)だ」(東京在住の外資系ヘッジファンド社長談話)
- インディペンデント紙: スローガンの「美しい国」と国民の生活に即した関心との「格差」などから「『権力のおごり』の教科書
- イタリアの有力紙レプブリカ: 「前任者がもたらした進歩をすべて無駄にした」「若い才能と目されていたのに、彼の政府はへまと素人的振る舞いにさいなまれていた」
- ドイツの経済紙ハンデルスブラット: 「政権は風に揺れる竹のようにいつも外因になびいていた」
- アルゼンチンのニュースサイト「ウルヘンテ24」:「スキャンダルで5人の閣僚が辞任や自殺をし、首相は351日の間、ひ弱な政権を守るのに必死だった」
- 朝鮮日報: 「運もなかったが、危機管理、内閣統率はどうしようもない水準との評価を受けた」
- 中央日報: 「最後までちゃんと判断できなかった」
- 新華社通信: 「安倍政権が国民の支持を失い、自民党内でも求心力がなくなったため」
- ロシアの主要紙コメルサント: 「日本は政治的カオス(混乱状態)に入った」
- 台湾: 安倍首相の下で日台関係は(72年の)断交以来、最高の状態になった(対日窓口「亜東関係協会」の羅福全会長コメント)
- 香港紙明報: 安倍首相が小泉前首相と異なり靖国参拝問題でアジア諸国への配慮を見せた点を高く評価。「それが安倍政権が放った唯一の輝きだったとも言える」
Sankei WEB: 「安倍首相は臆病者」英メディア酷評
- 英紙フィナンシャル・タイムズ: 「もう1人の小泉純一郎前首相を求む」。日本が派閥政治、利益誘導といった旧来の政治文化に逆戻りすることに強い懸念を示し、国際社会で堂々と振る舞える指導者の登場を求めた。
- タイムズ紙:「安倍氏の後にはリンカーン米大統領(のような指導者が求められる)」。「政治の後退の合図ではなく、創造的で時代に合った指導者を選ぶ目覚めの時にすべきだ」。
- ガーディアン紙: 国際社会を「大また」で歩ける指導者が必要。有力な後継者とされる自民党の麻生太郎幹事長は漫画好きでその資質はなさそうだ。
で、表で愚考。こわいよほんま。
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私がブログを書く理由
- 2007-09-08 (土)
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うまく整理できずにつらつら書くと、読んでもらいたい気持ちもあり、じぶんのもやもやをまとめたり気づきたいためにアウトプットしているのもあったり。まぁ、半分以上、オナニーに近いのかもしれず。
が、ただひとつ、ああ、このひとにだけ読んでもらいたいなぁというのがあって、それが”誰か”であったりするのだが、ふと、何かの拍子に”誰か”が読んでないことに気づいたとき、じゃぁ、どう次の動機づけをするのかというと、さっぱりわからない。
なのに、書き続ける自分がいるということは、つくづくどうしようもないじぶんだと嫌悪しつつ、よりどころはじぶんしかないのかと愕然としたり。
そこから、じゃぁ、う○になるかというとわたしの場合、ならない。人恋しい、とかじゃなく、いままで「つながっていた」ディスプレイの向こうにもう「いない」のが実感できたので、それはそれで、あとは「待つ」だけで。
で、「待つ」というのは、やっぱり絶望の先っちょというか、抜け出られたところ、すとんと腑に落ちる、淡々とした感情のない表情のなかにあふれる豊かな情感にひそんでいるなぁと、体感できる。
どうしようないぐらい読んでもらい人がひとりはいる。そんなもんだろ、ことばを紡ぐ原動力は。でも、そこに、その人はいない。その情態を”誰”ともしれずに書き散らすのもことば。いると錯覚していたのにいない、けどいるかいないかすらわからない虚にいるといないと書く。
逆理。無情。それが快感。破滅。狂気、狂喜、凶器。絶叫。
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プライベートエリア
- 2007-08-31 (金)
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どうやらわたしはプライベートエリアが広いようだ。だから、そのエリアに入ってこられる方々に身構えてしまう。仕事になるとさらに広い。思い当たる節がある。
社会人になって3年目だったか、ある歯科医院のお客様と懇意な間柄になった。仕事が終わると、美食をご馳走になり、仕事の相談にとどまらずプラべートにまで話がおよぶこともしばしば。はては、医療法人になったら監査役に就任してほしいと依頼され、私の言動を褒め称えていただいた。
いまから考えると、世間知らずというか、図に乗っていた私がいた。こんなにも胸襟を開いてくれるお客様がいるのかと驚き、同時に魅せられた。どんどんお客様にのめりこんだ。
そんな矢先、契約解除の通知を電話で受けた。理由を求めても要領を得ず、結局、なにもわからぬままに関係はおわった。不思議と怒りはなかったと今でもいえる。
あれ以来、信用と信頼を考え直した。「信用する/しない、信頼する/しない」を二項対立的にとらえるのではなく、信用と信頼を己の埒外に置いた。自分がコントロールできない怪物に踏み込むのはやめようと誓い、じぶんは何をふるまえるかだけを考える。
その結果、お客さまによっては、ずいぶんよそよそしいと受け止められているかもしれない。それはいなめない。ただそれを修正する「仕方」を学ぼうとしないじぶんがいる。正直、こわい。「よそよそしい」と「しっくり」の距離をはかれない。トラウマか。
それはそれで仕方がない。それもふくめて「じぶん」だと受け止めている。かといってそんなじぶんを説明したり弁解しない。説明したり弁解しはじめると、「わかる・わからない」が襲いかかり、いつのまにか、「わかろうとする」じぶんが顔をのぞかせる。
そうなると、とにかくじぶんができることを淡々と粛々とこなしていく、それができなくなる。
他者はわからない絶望と他者をわかろうとする希望のすきまにあるわずかな糸をたぐりよせたい。けどそれがなんなのか見当もつかず、何かにおびえている。
プラべートエリアが広いにもかかわらず、しばらくお会いしていないお客さまが脳裏によぎると寂しいと落ち込む。他方、毎月お会いしていただけるお客さまに、「なぜ、会っていただけるのか」と自問しつづけ、来月はお目にかかれない恐怖におびえる。
そんなもんかな日常は。いつか莫妄想を掴みたいわけで。
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定期健診
- 2007-08-29 (水)
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今日は東大阪へ歯の定期健診(あえて検診といわず)へ向かうわけだが、つくづく思う。え〜、定期健診は「習慣」と「モチベーション」の両輪だなぁと。わたしの場合、大津から東大阪なんて関西圏の人が聞いたら、アホやろとつっこまれる距離だから余計にそう感じるのかも。すかたんなもんでわからん。
習慣になってしまえば、「あっ、もう健診ですか」なんてひとりごちながら、すぅ〜と体内に入ってきて準備するけど、精神の躁鬱が安定しないとき、「習慣」の壁をこえるのがなかなか苦しい。
まっ、いいかとスルーしたくなるのをなんとかふんばるというのはそれそれで、「ひとり」を体感するわけで。まぁ、外から見れば気づくわけもなく、結局、「対面」って大事なぁとあらためて思うわけで。
まぁ、「なんのために定期健診」と問われるとチトこまる。困る反面、歯科医院のみなさまは、習慣化されているように”みえる”私が来院するのをあたりまえだと受けとめていて、そのあたりのギャップにいささか驚いたりするわけだが。まぁ、どうでもいいか、こんな話。
最近では多くの歯科医院で定期的に歯石を取ることが一般的になってきましたが、まだまだ歯石取りに関する疑問や誤解が多く聞かれます。今回は歯石取りの「ウソ!ホント?」について解説します。
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競技と違う活動をする選手は結果を出せない
- 2007-08-27 (月)
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「競技と違う活動をする選手は結果を出せない、というような思い込みが多くの陸上関係者のなかにあると思うんです。それを何とか吹き払いたいという思いがあるから、今回僕は結果を出したかったんですね。でも、僕がこの結果で終わったことで、他の選手たちに余計なプレッシャーがかかるようになってしまいかねないし……。それは、本当に申し訳ないと思うんです」
選手の意識や、陸上界のイメージを変えていこうとする動き。それに水を差してしまうことは、自分でも納得できないことだ。その点を、為末は危惧していた。
ちと違和感を「世界陸上やっぱり感」で愚考。
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やっぱり気になるのか?!
- 2007-08-20 (月)
- IMHO
日本テレビ系で18日から19日にかけて放送されたチャリティー番組「24時間テレビ30 愛は地球を救う」の平均視聴率は18・6%で、2005年の19・0%に次ぐ歴代2位だったことが20日、ビデオリサーチの調べで分かった。瞬間最高視聴率はフィナーレの19日午後8時52分に記録した43・9%。
歴代2位という数字にちょっとおどろき、かけたところ、瞬間最高視聴率にエッ。24時間ご覧いただくには、24時間コンテンツが必要なわけで、そういう点ではマラソンは魅力。でも、
- 欽ちゃんだから
- マラソンだから
- マラソンかつ欽ちゃんだから
そのあたりの因果関係はわかりません。もともと視てませんので(笑)
で、3km/時速換算すると、23時間強で完歩できるので、そのへんの数的マジックもうまくとりいれながら、欽ちゃんの年齢と出走前の医師会からの声明なんかがビミョーにまじって、香ばしいシナジー効果もあったのでしょうか。
あ〜、視てないのに完歩とかけるのに、あらためてネット監視社会って健全に機能するかどうかで、くわばらくわばらデス。
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