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新手

2010.08.11 晴れ

アルバイトの資料が届いたので夜中まで格闘。午後からは少しペースダウン。なんとか先方の夏季休暇中に仕上げたいところ。

07/02の日記で中国からのツアー誘致を連想した、と書いた。官民が中国からのツアー誘致に熱心に取り組んでいる。10月には1万人の団体社員旅行客が訪日する。東京の小売業は中国語の完備に忙しい。関西空港は中国語の電話通訳サービスを始めた。たとえば薬局で薬を購入する際、中国語に翻訳して説明してくれるらしい。

なかでも訪日医療ツーリズムの推進がめざましい。医療ツーリズム(メディカル・ツーリズム)は「医療を受ける目的で他の国へ渡航すること」らしく、世界各国から日本へ渡航してもらおうと旅行会社はチームを立ち上げ、政府は規制緩和や助成に取り組む。

特に中国人を対象にした健康診断やがん検診へリソースが振り分けられている。病院は中国語を話せるスタッフを配備しはじめている。

これらの記事と歯科医院のインプラント群雄割拠をリンクさせたら、いずれ各空港から最も近い場所で中国人を対象にした歯科医院を経営する医師が登場するかもしれないなと感じた。

調べていないが、すでに着手しているかもしれない。歯科医師が直接経営せずに法人の資本が関与して経営する方法もあるかもしれない。

表のサイト では「歯科 廃業」「歯科 経営難」「歯科 コンビニ」とかのキーワードでアクセスしてくる。M先生のブログ を拝読して歯科業界の実態を想像する。

歯科医院のサイトはインプラント全盛になり全盛から戦国へ、そして群雄割拠へ様変わりした。いつ頃からか”美容”と”本数”と”保証”を前景化させた。

前景化された過程を制作者の視点から推し測る。 5,6年前に誰かが先陣を切ってサイトへそれらの広告を打って出た。当時の歯科医院のサイトからすると、美容やインプラントの本数や保証が記載されたサイトは珍しく耳目を集めた。さらに新規患者の来院へつながった(かもしれない)。

すると、制作者はそういったサイトを真似るようになる。検索すればあっという間だから、全国で「類似」サイトができあがる。歯科医院のサイトで使われる画像は似ている。平均値よりわずかに高い検索スキルを持った制作者なら簡単に手に入る。

はじめて見た閲覧者は斬新で新鮮なサイトを歓迎した。「本数」まで記載されているからオープンな情報へアクセスした感覚が残り科学的な雰囲気を感じる。「実績」「設備」「保証」は三種の神器になった。

やがてそれらのサイトが怪しく映るようになった。論理的な説明をできないけれど、「何か」がおかしい。Flashをふんだんに使い笑顔が満載の安心が強調されたサイトから「何か」が消えた。あるいは隠れた。

ユーザは検索するよりも口コミを頼るようになり、その口コミも検索エンジンが作った模造記憶であることを知りようがないから、何がなにやらまことにわからなくなってくる。

今では朝のAMラジオの某パーソナリティがインプラントの怖さを力説するぐらい発言の自由が認められている(もちろん地域性の問題もあるけれど)。専門家の説明よりもラジオのパーソナリティの力説が受け入れられる。

世の中は二極化が進んでいると云う。賛同できるし同意する。ただし一部を除いて。膨大なエネルギーを使って積極的に変化して過剰な刺激を促進して成長する方向。それらに対する反動であるスローな活動。

変化と刺激による成長とスローな循環、両者は二極化するけれど、両者の規模は同じでない。反動のスローな循環は局所的であり一度進んだ方向は逆流しない。だから大局的には変化と刺激がもたらす成長が勢力図を広げる。

歯科医院のウェブサイトも同じ。「美容」「保証」「本数」「設備」をセットにした華やかな作りはこれからも広がっていく。制作者がそういった傾向のサイトを作る可能性が高いし、よい見た目のサイトは受け入れられやすい。

それらの反動としてどのようなサイトを制作すればニッチでマイナであっても継続して生き残っていけるのか。特定の来院者層に受け入れられるのか。広がりつつあるテンプレート化された歯科医院ウェブサイトのメジャ支配から逃れるためにここが正念場だと思う。

疑似

2010.08.11 雨のち晴れ夕方大雨

近所に木が増えたからか鳥がやってくるようになってきた。最近、雀の親子が囀っている。雛鳥が巣から出られるようになったらしく、木と電線の間を往来する。その姿はおぼつかない。電線から落ちるんじゃないかとハラハラ。(勝手に親子と決めているだけだが)2羽の雛鳥と1羽の親鳥が朝から空気を切り裂くように鳴く。あの声を聞いていると、どうしてチュンチュンって擬音されたのか不思議でしょうがない。

O先生のウェブサイトで使う図を作成しはじめる。明日にはアルバイトの資料が届くので今日のうちにおおまかなイメージをつかみたかった。

illustratorを起動させて下絵をトレース。なかなかうまくいかない。ソフトが悪いわけじゃない。ソフトを使いこなせない自分の腕の問題。そうとわかっていてもillustratorの最新バージョンCS5が欲しくなる。欲しい心は止まらず制止を振り切ろうとする。

「ほとんどのトヨタ車衝突は運転ミス=米政府調査」とWSJの日本語版が報じていた。58件中、運転者が全くブレーキペダルを踏まなかったのが35件、中途半端なブレーキ踏み込みは14件。残りの9件は衝突直前でのブレーキ踏み込みが示されたとの内容だった。

一方で結論は下されていない。全米科学アカデミーと米航空宇宙局の合同調査を続いている。現在、ソフトウエアと機械系統、電磁干渉に対する脆弱性を調査中と記事は締めくくっていた。

あの騒ぎは何だったのか訝る声が聞こえてきそう。その声は科学から距離を置いた文学的な推論であり科学が関与する余地のない領域だ。科学は反論も肯定もしない。沈黙する。JFKが暗殺された事実に対して委員会は「科学的」に調査した結果を報告しファイルを残している。にもかかわらず「科学的結果」を受け入れずに文学的な物語が再構築される。9.11でも繰り返されている。物語は願望を受け入れ、物語は心を強くゆさぶる。

トヨタ-バッシングの背景にアメリカの意図が潜んでいたというプロットを立てるとしたら、それと等しく今回の調査結果に対してトヨタの側にも意図が潜んでいたとしておかなければならない。両者は等しくロビー活動する資金とネットワークを所有している。

自分が立てた仮説や直感に最も近い意見を採用して納得するとき、その見方が成立するならば反対の見方も成立する可能性は非常に高い、あるいは対偶が妥当である可能性を検討することを頭にとどめておかなければならない。頭にとどめているつもりなのに、その機会はなかなか訪れない。自らその機会を遠ざけてしまう。はじめにひらめいた事柄に対して肉付けを強化する方向へ多くの時間を割いてしまう。

だから 『人はなぜエセ科学に騙されるのか』 のとおり自分は騙される。さらにこうやって備忘しておいても、類似の局面がやってきたとき轍を踏む。

疑似と類似に振り回される自分、はぁ。

書体

2010.08.09 曇時々晴れ

08/06(金)にM先生と食事してから帰宅途中、びわ湖花火大会の宴の後を見ながら帰った。浜大津駅付近はゴミ屋敷の惨状を呈していて00:20頃の街の粘性は高く、躰にまとわりつく空気はひどく人工的で気持ち悪かった。職人が丹精を尽くして造った花火は華美な装飾で天上を彩るけれど地上の面倒までは見てくれない。

O先生のページ制作。歯周病とインプラントのラフページを終了。このページを見ながら先生と細部をつめてゆく。

Macでページを制作していているとひとつの事実を忘れてしまう。フォント。スティーブ・ジョブズとMacでは必ず引き合い出されるフォントのエピソード。

「僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした」とスタンフォード大学卒業式でスピーチしたとおり、ジョブスはフォントに心血をそそいだ。その執着は異常と評され病的なまでにフォントの美しさを設計した。

その美しいフォント機能が搭載されたMacのブラウザに慣れていると、時折、Windowsのフォントに吃驚する。ページを制作しながらIE6-8の表示を確認する。今更だし改めて感情を露呈する事態でないはずなのに、MacとWindowsのフォント表示の違いに戸惑う。Windowsの可読性は自分が想定した目盛りをずいぶん下げなければならない。

自分の 表のサイト をIE6で確認したたら想像どおりだったので吃驚しなかったけど代わりにがっかりした。しょうがないとはいえ、想定していたとおりとはいえ、読みづらい。本来ならハックを使ってブラウザごとに仕訳してフォントを調整すれば解決できる。自分のサイトではそこまでしようと思わない。

Macが優れていてWindowsが劣っているという問題ではなく、両者の指向性の違いだと自分は認識している。

大学をドロップアウトしてカリグラフィのクラスに寄り道したジョブスが微妙なアートの要素を含んだフォントの世界に出会った。そこで何かを学んだ。それから10年後、Macintoshに何かが搭載された。

指向性の違いを承知して強く希望すると、MacやWindowsを問わず、そろそろウェブサイトの世界は可読性を追求してもよいと思う。

HTML5の可能性を肯定すればウェブサイトの動画の道は開かれている(コストの問題を解決しなければならないが)。楽観的な立場をとれば、動画はウェブサイトを進化させる。

動画の道が開かれて技術が進歩すれば、ウェブサイトはインターネットの外側にあるメディアを統合していく役割を担うと思う。長い年月をかけて統合していく。

本や雑誌の中で動く映像を見られないけれど、ウェブサイトではそれを実現できる。それがウェブサイトの可能性だと思う。その時、テキストの可読性が改善されなければ、いつまでたっても紙か電子書籍かといった議論が続く。

PC(あるいは各種デバイス)のローカル環境に保存されたフォントを表示する技術的制限を解決しなければならない。クラウドにフォントがあってそれを読み出すような仕様に変更されたら、各設計者が想定したとおりの可読性を維持できるサイトを実現できる。そうなればWikipediaのヨハネス・グーテンベルクの関連項目にウェブサイトのフォントが記載されてもよいなぁって思う。

偉業

2010.08.08 晴れ

ひとつ嬉しいことがあるとひとつ悲しいことがあって帳尻を合わせて精神の均衡を微妙な位置で懸命に保っているのかもしれない。ゼロサムのような冷徹で過酷なゲームでなく予定調和でもなく、後から気づくとそうだったという程度の緩やかな偶然に包まれて、自分が持てる時間の貸借対照表と損益計算書は複式簿記のルールにのっとってやがてゼロで一致するみたいな感じ。

午前中、F社のアクセスログを見ながらサイト構造を練る。なにか根本的な間違いを自分が犯しているような不安に包まれる。ユーザの視線から遠く離れた位置で空回りしている映像が浮かぶ。その根本的な間違いを見逃している。ほんとうならば見逃してはならない些細であるけれど甚大な影響を与える要素を掬い取れないでいる。

14:00前の列車で三ノ宮へ。THE COLLECTORSのライブ。17:30スタート。会場の収容人数は250人。とても楽しみにしていた。あと少しチケットが売れたら満員なのにというライブが多いらしいTHE COLLECTORS。今回もそんな感じだった。

約2時間のライブ。終わった後、躰がクタクタだった。観ていた自分がこれだけクタクタになるならステージの人たちは倒れるだろうなぁと思った。あとでブログを読んだらリーダは酸欠で記憶がちょっと飛んでいたとか。

ライブは素晴らしい。ブルーノートやライブが好き。数千、数万の人員を動員できる会場より、ほどよく小さいハウスでステージが見えて演奏する人たちの表情をなんとなく確認できる臨場感を好んでいる。

規模は小さくてもコアなファンに支えられて24年間も続けてこられるってステキだなぁって心の底から強く感じた。

「コレクターズが残っているって業界の七不思議なんだよ」ってコータロー君がステージでしゃべって笑いをとっていたけど、脚色は多少あってもいくらか本当も混じっていると思う。それぐらい厳しい業界を残って続けてきた。

数千、数万の人員を動員できなければある程度の年齢に到達した時、現役を降りてプロデュースする側に回るのかもって想像する。リーダは今年50歳。250人規模から1,000人前後のライブハウスを今も枯れることなくこなしている。メジャのなかでマイナとしてきちっと残っている。

続けること。(限られた人数でもよいから)人を魅了し続けること。感動させること。自分たちを思い切り楽しむこと。

やりたくてもできない偉業だと思う。

愚昧

2010.08.06 晴れ

プランタのミリオンベルは成長のコツをつかんだのか遅ればせながらの勢いで伸びてる。朝、それを眺めている自分の位置から緯度と経度を入力したら世界の各地で水害や洪水、猛暑による山火事が起きている。

北極圏のデンマーク領グリーンランド北部のペテアマン氷河から巨大氷島が分離した。面積260平方キロの巨大な氷の島が海上を漂流し始めた。崩落した氷塊の大きさは米ニューヨーク・マンハッタン島の約4倍、高さはエンパイアステートビルの約半分ほどらしい。氷塊に閉じ込められている水量は全米国民が利用する水道水にして120日分にも相当する。氷塊の姿形を文明生活の物質へ置換した数値を読んでも感覚のセンサは鈍い。

13:00からF先生のミーティングに出席するために11:00前に出発。大阪駅構内のカレーをランチしてから12:45に到着。みなさんがお昼を食べている間、ノートPCにSkypeをセッティング。13:15にスタートして14:50に終了。

「だいたいにおいて、正念場の実体は、 本当の正念場よりも、ずっとまえにある」と保呂草潤平は言ったように、考えどころは想定よりずっと以前の時点に存在する。「そこまで考えている」と自己を労る無知は無邪気であると同時に危険な事態を招く。経験則から言えば、「そこまで考えている」とアピールするスタイルの8割は練習のための練習であり試合を想定した練習じゃない。「そこまで考えて」いないし仮に考えていると自らが定義できても端から眺めたら考えている自分の姿に心を奪われてうっとりしているように映ってしまう。

17:40まで滞在してから19:00からのM先生のミーティングに出席。19:15にスタートして20:30に終了。S氏, Y氏, H氏が吸収している。スピードに驚く。今年の猛暑のプランタのように朝に水やりした土は夕方、否、昼過ぎには乾いている。ほんとうに素晴らしいと思う。

ミーティングが終わった後、M先生と食事へ。現在の状況や人員配置、来週の面接や増看などについて相談を伺う。それらに隠れる構造的な問題を把握するために尋ねる。5月から6月にわたってスタッフだけでミーティングした内容と要望もお伝えできしっかりとした手応えをつかめた食事になってM先生に深謝。

目の前に事実というホールケーキがある。それを切り取らなければならない。真上から視られない。天の視座を獲得できればホールケーキだと認識できるが、思考というナイフを持って切り取る人は円かどうかを生憎認識できない。円のケーキから25度だけ切り取る人もいれば、90度を切り取る人もいる。さまざまだ。ガタガタに切る人やスッパリと切れる人。

角度は問題ではない。薄いか厚いか切れ味は優劣ではない。自分が切り取ったケーキを口に入れて理解してケーキを吟味する行為が大切だと思う。

想像力という乗り物にのって円を認識したい人はいる。その人が「わからない」というハンドルを握っていればルールとマナーを守ってなるべく事故を起こさないように運転するだろう。巨大氷塊が大陸に当たる確率ぐらいで円と認識できたら切り取り方は変わってゆく。

「わかる」というハンドルを握っている人は背景に透過した事故に遭遇する確率が高い。ホールケーキを切り取らずに丸ごと食べられると思っている。

不振

2010.08.05 晴れ

ふと気づいたときから自宅のプランタでミステリィが続く。今年は青紫蘇を植えていたプランタから芽が出なかった。原因を調べず毎朝水やりはしていた。あるとき、プランタの土に穴が開いていることに気づいた。気づくたびに土をもどして穴をふさぐ。翌朝になるとまた穴が開いている。

O先生のサイト制作。歯周病のページを終えた。これから少し寝かせる。ページを作り終えてそれを眺めている時、多少の高揚感が混ざっている。制御したくてもなかなか難しいやっかいな感情で、冷静に確認しようとすればするほどコントロールできない領域へ高揚感は隠れていく。

だからページを少し寝かせる。3,4日、あるいは1週間ほどそのページを眺めるのをやめる。それから改めて見ると、違和感が浮かび上がってくる。削れるポイント、足さなければいけない表現を把握しやすくなる。

イオンに入店していたCDショップが閉店してカルチャーセンターにリニューアルする。運営会社は変わらない。運営会社のサイトへアクセスしてみると、ミュージックカルチャーセンターを運営しているようで、おそらく業態変更なんだろう。

3年ぐらい前からそろそろ閉店するよって奥様に言い続けていた。このイオンでCDやDVDを購入できる唯一の店だからなんとか維持するよ、ってその時は反論していたが、昨年だったか、店舗内の一部からCDを撤去して雑貨コーナを併設したとき、奥様も閉店を確信したらしい。

一番近くにあるCDショップの状態から業界全体を推論するのは、いつも自戒しているように危険だ。その店舗を観察しておおむね衰退していく様子を理解できた。部分の試行錯誤が続き全体の店舗作りを継続できない。物理的な制限があるから品揃えを充実させられないので店内の見た目を変える。

販売の傾向は平均へ回帰して店の主張は裏の倉庫へ仕舞われる。無難という最高に微妙な褒め言葉が似合う売場。ニッチやマニアへ舵を切れない。

不振、という定義を書き換えなくてはならないと思う。すでに不振ではないのだろう。必要とされなくなった。THE COLLECTORSのポッドキャスティングを聞いていたとき、リーダとコータローさんが「俺たち昭和だからねぇ、モノで欲しいんだよねぇ」ってしゃべっていた。自分も昭和の体臭が染みついているからモノで所有したい気持ちが強い。

本やCDは中身がコンテンツであってモノはコンテンツを運ぶキャリアでありメディアである。そのメディアをデザインする人がいて、デザインによって売上げが変わることはあるけれど、コンテンツが貧弱ならその手法もいずれ通用しなくなる。

奇しくも閉店が決まったCDショップの隣に書店がある。休日の書店に人はたくさんいるけれどレジに並ぶ人は少ない。店員の人たちはレジで忙しいのではなく携帯にデータを格納されないように監視するほうで気ぜわしい。文庫のコーナなんてほとんどいない。

子どもたちはCDショップの前に置かれた巨大なディスプレイに映し出されるトムとジェリーをじっと見る。最初は立って見ているけれど数分もすればしゃがむ。英語であっても関係ない。笑っている。絵本を真剣に立ち読みする子どもたち。

空きスペースに売れない商品を置くならイオンもそこで絵本の朗読をやればよいと思う。子どもが本を読まないと大人は云う。どうも大人の感覚不振みたいだ。自分たちの日常のふるまいをそのまま子どもたちへ敷衍して推論しているにすぎないように思う。

コンテンツにふれる時間と場所をふやせば子どもたちは座ってじっとしている。朗読は読む側にもとてもよい経験になると想像する。

メディアの形態が変わって旧世代のメディアが売れなくなることはあってもコンテンツが売れなくなったわけでない。契機にふれる空間を創出できれば好奇心と興味が体内で自己複製して行動していく。

均衡

2010.08.04 晴れ

数日前から続く指揮者がいない蝉と雀のオーケストラはハーモニーからほど遠く目覚まし時計のベルにとってかわろうとしてくれていてありがたい。『オルフェウスプロセス―指揮者のいないオーケストラに学ぶマルチ・リーダーシップ・マネジメント』 ハーヴェイ セイフター, ピーター エコノミー が語るように人間だと指揮者がいなくても素晴らしい音を奏でるのに。蝉と雀は鳴き声の大きさを競い合っている。蝉の鳴き声の音量が大きくなれば、雀は一オクターブあげて鳴いているように聞こえる。そんなわけないとわかっているけれどそうでも置き換えたくなるようなありがた迷惑な二重奏。自然だ、思う存分鳴いておくれ。

O先生のサイト制作とF社のサイト設計。歯周病のページの配置を素描してテキストを流し込む。そこに画像をはめこんだらどうなるかをイメージ。それからユーザの操作を想像しながら全体のトーンを調整する。

グリッドデザインとプログラムを活用して1ページのなかで1つのテーマを過不足なく説明したい。足しては削り、削りすぎたら足す。

F社のサイトはゼロベースで再考したい。リニューアルするならフィーが発生するのでゼロベースからアプローチしたければ、相手に許可を得てからでないと失礼である。でも長いスパンを想定したら今の枠組にとらわれのはよくないと思う。新たな制約を設定したほうが急がば回れになる感じだ。

光と影、陽と陰と云う。コインの表と裏。現場とウェブサイトも同じ式が成立する。ウェブサイトだけで事業収益を計上しているなら式はあてはまらない。等式はネットから離れた場所で事業収益を計上する仕事だと成立する。どっちが光でどっちが影かまではわからない。

自分が制作したウェブサイトから収益を計上してもらえたら素直に嬉しい。自信も持てるようなる。ウェブサイトを閲覧したユーザが問い合わせたり訪問して収益に結び付くよう制作する行為が自分のドメインであるし、その視点からサイトを設計したい。

とはいってもウェブデザイナの方々のような腕を持ってないから最新技術や手法を駆使してカッコいいサイトや超然としたサイト、かわいいサイトとかは制作できない。せいぜい体裁を整えられるぐらいだ。この弱点を抱えて強みと相殺しながら強みを残さなければ。

あとひとつ。ウェブサイトは合わせ鏡だと思う。自分の背中は見えない。だからウェブサイトという鏡を使って背後から後ろ姿の”現場”を映し出す。そんなサイトを制作したい。

合わせ鏡の視点は収益に直結しない。時に現場へカオスを招き入れる可能性もある。お客さんは売上を増やしたいからサイトを運用するのに、何だか意味不明な御託を並べて制作しようとする奴が現れたらどんな感情を抱くだろう。

ましてやお客さんはホームページに対して小綺麗でFlashがあってみたいなイメージを強く持っていらっしゃる。容姿への強い要望がある。なのにそれを満足にできずに言葉や表現、理路に拘泥したら不快を与えるだけだ。

その時思う。自分が現場へ不快をもたらした。自分が契機だ。でも、それは組織の背後に隠れていた見えない全体でもある。誰かに後ろから凝視されたときの得たいの知れない感覚のように。

不快を認識するためにウェブサイトへ出力する。現場の感情と論理、組織の使命と価値をウェブサイトへ出力する。不快から不を取り除く自負を自分は持っている、とその時思う。その自負がいつ破綻してもおかしくない均衡を保っている。

禁忌

2010.08.03 晴れ

琵琶湖の表情は毎日異なる。今日はとても青く穏やかだった。湖面が青い原理を自ら学んだのはいつ頃だっけ? と思い出しながらGIOSに乗っていると危ない。GIOSに乗っている間は思い巡らせないように注意しなければならない。頭と躰を分離したら背景に透過していた事故が時空をねじってやってくる。

WPの制作。このブログのテーマはWPのデフォルト(=Twenty Ten) を使っている。未完成なのでもっとカスタマイズしたいけど、ちょっとやっかいな事態に遭遇した。テーマがバージョンアップされるとカスタマイズした箇所が上書きされてしまう。

他のテーマでもバージョンアップはある。これまで頻繁にバージョンアップされるテーマを使ってこなかった。今はWPのデフォルトテーマだから今後もバージョンアップされる可能性を残している。ちょっとやっかい。

O先生のサイト制作。イラストはおおむねOKをいただき微修正の指示を仰いだのでページを制作。

平家物語「あなあさまし、これは禁忌とこそ承れ。かかる事聞くとも聞かじ」のくだりのように禁忌は少なからぬあるのだろう。文化人類学に精通していれば禁忌の音色は他人と違って聞こえるかもしれない。

禁忌を検索すると文化や皇室制度、江戸時代、戦争など多岐にわたっているようだ。禁忌と差別の距離を積極的に測った記憶はないので両者の隙間にいかなる現実が隠れているのか知らない。

いま耳目を集める所在不明の中にはある種の禁忌が介在するケースも含まれやしないかと想像する。街中を散策しているときに町並みの連続性が途切れたり不思議な路線価があるみたいに。

テレビと新聞が生活から消え、ブラウザのブックマークのニュースサイトが消えてから空白が生まれた。空白を空白のまま残して過ごしていけるほど諦観していないし身は研ぎ澄まされていない。

だから空白を埋めるために何かしなければならない。テレビと新聞とニュースサイトが退場して新しく入場した空白を埋める作業はリハビリみたいだ。流れてくる情報や仕事で必要だからって流入させていた情報は感度を低下させていた。電車の車内放送に何も反応しなくなるかのように。

まだRSSは残っている。それを消し去る度胸とまだ出会っていない。恐怖がまだ支配している。

自分が思い巡らさないと現象は脳内に生まれない。自ら問いをつくらなければ見えない。誰かが空白を埋めてくれないし誰かが代わって現実を視てくれるわけでもない。

でも、空白は一人で埋められない。関係が作用して関係が関係を作り関係が自乗していき関係の集合の濃度が高くなる。適切な距離を維持した高濃度な関係が空白を埋める。彩られていく空白を躰と接合していく自分の感性はかかわりから感度を与えられる。

虚構

2010.08.02 晴れ

朝から蝉が全力で鳴いている。一週間と定着している寿命はもう少し長いらしい。最近、ベランダにスズメがよく現れる。同じスズメかどうか判別できないが朝からけたたましく鳴く。蝉と雀が指揮者のいないオーケストラのようにハーモニーのない音楽を演奏する。

WPの制作。表のサイト を変更した。暫定的な実験。今後もテーマを作成して試行錯誤していこう。

いつのまにか此岸から彼岸へわたっている人はいるんだなと思う。残った人が手続きしないので紙の上では娑婆に存在している。偶然がその存在を確認したら神隠しにあったみたいに消えてしまった。

残された人は知らないと言う。周囲は意図をはかりかねる。憶測をたくましゅうする。

公的機関は物事を複雑にして自分たちの仕事を作り出し予算を獲得している。紙から電子化されてもシステムを簡素化せずに複雑のままにしておく。

一般人が判定できる範囲の膨大な入力項目が公的機関にとっての”必要最低限”であり、不思議なことにその中にいる人たちも一歩外へ出たら一般人であるから自宅へ戻って想像力を起動させたら必要最低限の分量が異常な状態と理解できるはずだ。もちろん理解していらっしゃる。

でも想像力は自宅の机の抽斗や書架に片付けられ、車中で移動している間に何かが入れ替わり眼前のディスプレイと向き合う。あんな場所で大切な想像力を使われたくないって訴えるささやかな反抗なのかもしれないと自分は想像する。

ディスプレイに表示された数字や紙上に残る記録が公的機関の事実だ。事実は建物の中にだけ存在し確認しなくてもよい。

ただ建物の中の事実とほんとうの実体を相互参照したい”だれ”かが現れたら自分たちの建物が破壊されかねない。建物の外から中の事実へアクセスする通路を迷路にしておけばよい。さらによいのは迷路に示す案内文を複雑にしておく。

公的機関は混沌と複雑を峻別しているし一線を引けていると自負しているからシステムはさらに絡み合い入り組んでいく。誰が何を把握しているのかわからないほど複雑にしておけば建物の存在価値は維持される。まるで92兆2992億円を誰一人把握できていないかのように。

いつもの時間にいつもの場所にあの建物があればそれでいい。私たちはあそこへ入ってゆけるのだから。

集約

2010.07.31 晴れ

人工衛星がどうして落ちてこないのかと頭に思い浮かべるのはいつごろだろう? そして落下していると知るのはいつで、それはニュートン力学によって記述可能だと理解するのはいつ頃だろう。

直感的に思い浮かぶ疑問や経験が発見する質問、言葉を紡いでいく論理の問いがある。

13:00前に出発して神戸へ。15:00からO先生と打ち合わせ。17:00に終了。O先生のスライドを拝見すると理解を深める前に直感が養われる。真に息をのむ症例はまったくの素人が見ても感覚的にわかるものなんだ。それを毎度思う。

O先生は多めにスライドを渡さない。いつも必要最低限の枚数をUSBメモリーへ保存していく。術前と術後をあきらかに判定できる症例を選び何も言わず自分へ見せる。反応を観察する。それが判断基準のひとつであるみたいだ。きわめてシンプルな表現を心がけていらっしゃる。

会計事務所にお世話になっていた頃、研修で拝顔したコンサルタントの先生から二つ教わった。その二つを教わっただけでも社会人になってよかったし、今でも行動様式の一つになっている。

一つ目は問題を一言集約すること。クライエントへ提出する提案書に記載する問題点を一言で表現しなさいと教わった。先生は一言集約するために何百ものチェックリストを使って診断する。それらのリストから一つ一つの要素を抽出して問題を抽象化する。

クライエントから話を伺ってただ悶々とイメージする行為が考えると受け止められる。考えるという言葉を使えるだろうか?

「いくつか考えます」と言った人に「いま考えていることを教えてください」と言ったら、「よい案じゃないから」と回答される。「悪い案を教えてください」と言うと、「いや、それは思いつかない」と不思議そうな顔を浮かべる。

そして「考えているけどまだまとまらない」と返答されたので「まとまらない状態を教えてください」と笑うと、たいてい教えてもらえない。「いろいろ考えてはいるんですけどね」と主張する人へ「いろいろ考えたものを見せてくれ」と頼むと、1つの案が提示される。「一つの中にいろいろある」と考える相手と「複数の案を練る」と考える<私>との間にズレがある。

一言集約がとても難しい思考形式だと理解できたのは会計事務所を退職してからだった。

二つ目は報酬について。コンサルティングフィーは上場企業の平役員の給料以上を請求しなさいと先生は主張された。それぐらいの付加価値を提供できないとコンサルティングではない、そして、それぐらい支払っても惜しくないと思われる存在価値でありなさいと。

先生のクライエントは一部上場企業だった実情を差し引いても今の自分に教えを当てはめたら目も当てられず、平役員の給料どころか新卒の初任給に至らず何を教わったのだろうと蹲る。

O先生のウェブサイトもダイエットしてシェイプアップしよう。ただSEO的には好ましいアプローチではない。簡潔かつ適度な分量の文章とSEOのバランスを崩さずサイトを設計して制作しないと。



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