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目は疑うためについている?
- 2008-04-21 (月)
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「騒音おばさん」に実刑判決・・・・その裏に隠された真実!! - kobaちゃんの徒然なるままに - Yahoo!ブログを読んで勇気のある人だなぁと嬉しくなった。騒音おばさんの話は、ブログ界隈に棲んでいると、以前から「どうも様相は違う」と話題になっていた。でも、ブログ界隈から一歩ぬけだせば、メディアの報道が「事実」であって、よもや被害者に疑いがかけられるなんてなかった。「メディアの報道に公平中立なんて絶対ない」と考えさせられた出来事。
今回被害者とされる「老夫婦」が隣に引越ししてくるわけだが、どうもこの自称被害者とされる「老夫婦」の方にこそ、トラブルの原因があるのではとの疑惑が持ち上がった。
この自称被害者とされる「老夫婦」は熱心な創価学会員であることも判明。
この事件についてはこんな書き込みがある。via: 「騒音おばさん」に実刑判決・・・・その裏に隠された真実!! - kobaちゃんの徒然なるままに - Yahoo!ブログ
2006年の段階で、被害者の夫婦が「創価学会」だと疑われていた(参照)。
創価学会の会員であることと、今回の疑いの関連を私は判断できない。また、被害者側が「監視」したり、障害をもつおばさんのこどもに「中傷」したり、近所に「吹聴」したりしたかどうかは知らない。
ただ、火のないところに煙は立たないだろうなぁとだけ思う。あと、創価学会の会員がメディアのなかに多いという噂を耳目すると、なにかしらイヤだし、気が滅入る。
今年36歳になる。30代に突入してニュースを視なくなった。それも加速度的といういか、なかば意識的に視ない。「誰か」が「何かの目的」を持って「編集」した「映像」を「事実」だと受け止めてしまいかねない自分に恐怖を覚えた。新聞の記事を隅から隅まで読むかといえば、読まない。これも加速度的に。
「世間に疎くなる」のはやっぱりこわい。こわいから、テレビを視たり新聞を読んだりする。それは、「知る」行為だろうけど、忙しない時間の中、フト立ち止まる。「そもそも知る必要があるのか?」
知っているだけで何も考えていない自分。だけど、他人から「なんだ、そんなことも知らないの?」と見つめられる恐怖。「無知」の呪縛から自分を解き放ち「無知」を恐れないこと、それが自分には必要なんじゃないかと気付き始めた30歳。
時間はかかるかもしれないけど、「自分の目で見たこと」をじっくり考える、あるいは「自分の耳で聞いたこと」をじっくり吟味する、そういった「削る」が必要なんだ。黙読だけでなく、たまに音読してみると、自分の声が自分も耳に入ってくる。不思議な気分。
疑うというと負の意味を持つかもしれない。でも、目は危険を察知して我が身を守るためについているのじゃないかなぁと想像したり。なぜ、こんな複雑な位置についたのだろう。なぜ飛び出ているのだろう。
もっともっと削ろう。自分の感覚を研ぎ澄ますために。
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なんでこんなにとられるのか
- 2008-04-16 (水)
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すべての老人が使っているわけじゃない。でも、「とられる」という。だとしたら、「税金と社会保険料から 毎月○○円の医療費をとっています」と自分を表現するはず。報じる方は、「2年前からわかっていたのだから、もっと懇切丁寧に」と口にする。正論。じゃぁ、2年前から報道は問題を指摘し続けてきただろうか。制度の問題点を「わかりやすく」報じているだろうか。「高い」か「負担」を飛び交わせば「わかりやすい」説明らしい。日本の総医療費は対GDP比で7〜8%。主要先進国では低いとのこと。窓口負担がないカナダとかが顔をだす。「世界」との比較が「わかりやすい」説明らしい。
参院選の大敗が引き起こした現場の混乱。軽微だろうけど報道はひっそりと報じた。もう施行が目の前にあり、システム開発も佳境に入る矢先に「負けちゃったからやばいよ、延期しよ」といえば、保険証の混乱は織り込み済み。
高齢者の医療費負担増の凍結を検討している自民、公明両党の与党プロジェクトチーム(PT)は30日、来年4月に予定していた70~74歳の窓口負担割合の1割から2割への引き上げを1年間凍結するなどの措置を正式に決めた。75歳以上の一部からの新たな保険料徴収も半年間先送りし、続く半年間も本来の保険料の1割に減額する。
今回の合意で必要となる税負担は、窓口負担増の凍結で1100億円、保険料徴収の先送りや軽減で360億円。一連の措置に伴うコンピューターのシステム改修費として100億円程度かかる見込み。与党は、これらを合わせた計1500億円程度を今年度補正予算に計上するよう政府に求める。
関心は、「自分がいくら払うのか?」であって、「制度それ自体」ではない。会計事務所にお世話になっていた頃、国民健康保険が高いと苦情をおっしゃるお客さまに何度も同じ説明をした。毎年。それでも溝は埋まらなかった。私の説明不足を悔いた。他方、もう一人の私は、「制度そのものや計算方式の根拠を理解する気持ちを持ってないのだなぁ」と絶望した。
絶望のなかに希望もある。ある中年の女性が口にした。「90歳にもなるご老人が年金から天引きされたら生活できないと電話で泣きながら話す。こんな制度がほんとうによいのだろうか。もう一度、制度だけじゃなく、医療を含めた全体を国会で議論してほしい」と。
私は女性の理想に賛同。こういう女性が「現場」にいらっしゃることを感謝する。
病院がサロンと化す。不必要な治療に医療費が支払われる。国民医療費の総額は30兆円、その1/3を70歳以上の高齢者が使う。「死」の直前にかかる医療費が一番高い。どうして高いかはタブーになってしまった。報道しないし。政治家は口にしたとたん票を失う。本来、自由診療であっても「白紙委任状」を書かせて保険請求する「医療」もある。コンビニ受診。救急車タクシー。列挙すれば絶望というより、もう「死」が身近に感じられる。「死」を抜きにした医療が報じられることで、幻想の生と無限の治療を私たちは獲得した。
中年の女性が口にした言葉に便乗する。国は医療を考えてほしい。そのかわり、私は自分の死を徹底的に考える。そこで折り合いをつけよう。
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Re: 批判が社会を喰い尽くす
- 2008-04-01 (火)
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批判が社会を喰い尽くすにコメントをいただいたので一読して吃驚した。私ごときでは回答できない問題提起。ただただありがたいなぁと感謝。少しずつ少しずつ自分で考えているので、コメントされた方が注釈している『意味に餓える社会』を知らなかった。管理人さんの問題提起でまたひとつ考えることがふえた。それがとてもうれしい。答えは何年先になるか。辿り着けないかも。どうなるか何もわからない。
管理人さんは慶應義塾大学に在学とのこと。ステキなテキストを書くなぁと感じ入った。私からすればはるか高度な文章を書いていらっしゃる(”はるか”もおかしいな、どうも形容詞がしっくりこない)。管理人さんの知性は、この先もいかなる言葉を紡ぐのかとワクワクしてしまう。
次の文章に震えた。
情報交換や情報収集に希望が無いとすれば、次に考え得るのは意見交換や議論です。しかし、インターネットに専門家に対する非専門家、知識人に対する大衆(?)が包摂されている以上、自分自身が望むような水準(レベル)で意見交換や議論を展開していくことは、困難極まりありません。
何故か。<複雑高度>な寄与を、<単純>化することで、<万人共通>の事柄として取り扱うことが、不可能だからです。複雑高度な現象を語るには、素人や非専門家に退場して貰う必要があります。単純な話し合いで事を済ませたいのであれば、専門家や知識人に黙って貰わなければなりません。万人共通で標準化したいのであれば、複雑にも単純にも偏っては駄目です。
今回の問題提起は<複雑高度な現象>だから素人の私は退場しなくちゃならない。私と管理人さんとの間にあるのは能力と現象の差異。いや、差異は失礼。能力の落差であり高低だ。ひとつひとつの単語の意味は理解できる。でも単語と単語とつなげる文章になると暗闇に入り、ましてや段落になると世界もなくなる。でもそれが他者なんだとうれしくなる。他者がもたらす「わからない」にふれたとき私が目覚める。
レヴィナスの「境界を接していない」という物言い、そして、<他者>の異邦性とは<他者>を<自我>、私の思考、私の所有物に還元することの不可能であり、それゆえ<他者>の異邦性はほかでもない私の自発性の審問として、倫理として成就されるとは、今回のような経験を指すのかも、とひょっとしたら一割ぐらい理解できたりしてとほくそ笑んだ。
管理人さんという他者から他の私がやってきた。他の私が私を突き刺したとき、私をながめる。でも、その私を眺める私は?
タマネギの薄皮をはぐように一枚一枚をはぐ。無限がぱっくり口をひらいている。いつか皮はなくなるはずなのに。でも、その私すらも「わたしが生きていようといまいと、<わたしはある>は意味作用をおこなう」私じゃない。
今の私はやっぱりヒトから目が離せない。
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客観性の幻想をつかむ努力
- 2008-03-09 (日)
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国会議員は誰から報酬を得ているのか。もし、稲田議員の言うとおり「検閲」でないとしたら、「稲田議員に給料を支払うことは適正か確認したい」という理由で検閲させてもらえるのだろうか。そして、稲田議員の言論は「客観性」を有しているかどうかは不明と指摘されれば、稲田議員はどう受け止めるのだろう。「客観性」なんてナイ。
稲田議員は「表現の自由や上映を制限する意図はまったくない。でも、助成金の支払われ方がおかしいと取り上げられている問題を議員として検証することはできる」。
アルゴ側は「事実上の検閲だ」と反発していたが、「問題ある作品という風評が独り歩きするよりは、より多くの立場の人に見てもらった方がよい」と判断し、文化庁と相談のうえで全議員に案内を送った。会場は、同庁が稲田議員らのために既におさえていた都内のホールを使う。
「検閲」でないとしたら、放映後に「検証」すればいい。内容を「反日的」と聞いた一部の自民党議員が、文化庁を通じて試写を求めた行為自体が、表現の自由や上映を制限してる。ただし、「反日的」という言葉には、朝日の「意図」が透けて見えるから辟易。もうすこし大人な書き方できないかなぁとこちらにも中指を突き立てる
立場というか、ひっくり返すと、こういう言葉も「スルー」されずに検閲されるのかもしれない。
海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故について、自民党の大前繁雄衆院議員(65)は8日、神戸市内であった党兵庫県連の会合で「交通事故のようなもの。他の漁船が(イージス艦を)かわしているのに、あの船だけかわしていない」などと述べ、清徳丸にも責任があると主張した。
「なんでまたこんな時にそんなことを口にする」と嘆く一方、「まわりの雰囲気を鑑みれば指摘できない可能性を口にする」と驚く、二つの感情が自分のなかで同居している。議員の言葉を狩るつもりはない。ちょっと言い方には首をかしげるけど。むしろ、そういう可能性を吟味する努力を「報道」が怠っているところに危惧を。
報道にその役割を求めるのは失礼なのだろう。
客観性の幻想を追い求める
JR福知山線脱線事故をはじめ地域社会をゆるがす事故が発生したとき、「客観性の幻想」を追い求める人たちに敬意を払う。稲田議員の言う客観性にはまった同意しない。とはいえ、(行政の肥大化を心配しつつ)海外のように「客観性をとことん追求する」機関を切望する自分もいたり。
「客観的」と判断した「客観性」を審判するのは誰かというタマネギの皮むきは残る。でも、その皮むきをする努力を怠れば、料理は難しい。「加工品をチン」が多勢になると、言葉にだけ反応したり、思想にだけ反発したり。「狩猟」が跋扈する。
とかく時間の流れはますますはやくなる。「時間」と「言動」の速度を一致させようと腐心した結果、何も残らず、「停止」だけが足跡を残す
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大衆が不信を購入して社会が対価を支払う
- 2008-03-06 (木)
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妙案を提示できないので愚痴をこぼしたところで負がかかるだけ。だけどやっぱりしっくりこない。「まかせておけば大丈夫だよね」との頼りを裏切るふるまい、それを受けての疑う心、この両者が台頭する速度と濃度は無限に足を踏み入れた途端、社会的コストが増大へ向かうと痛感する。裏切りと疑心、どちらが先に生まれたのか知らない。コインの表裏。
中国産の具を日本に輸入して、日本でギョーザを製造すると、どこにも中国産の文字は表示されず、単に「製造者・〇〇」と日本企業の名前が表示される。日本で作られているが、ギョーザの具の産地(原料原産地)が表示されていないので、国産の野菜を使っているのか、中国産の野菜を使っているのかはわからない。
だったら、「加工してあるものも表示しようよ」とか「まどろっこしいから全部表示しようと」と切り出すと、企業はたまったものじゃない。ただ、自業自得と非難されてもしょうがない。やっぱり、悲鳴をあげた。
こうした現状の食品表示は問題だとして、東京都は「加工食品すべての原料原産地の表示を義務付けよう」と検討した。しかし、食品業界や国の「手間や労力がかかり売価に跳ね返る」とか「文字数が多くなり表示スペースがない」など、現実的でないという声に押され、冷凍食品など2、3種類の検討にトーンダウンしてしまった。
企業には、「加工食品で食卓に革命が起こった」わけで「どうせどの原産でも買うだろ」という適度な自負と過度な自信が同居しているのかも。あと、「だったら国産に切り替えたら、差額を販売価格に反映してもいいのかよ」という不信もあったり。そも、国産に切り替えた時点で、市場は供給不足で混乱すると思う。
消費者には、「便利だしおいしい」と「大企業が製造しているから安心」という適度な信用と過度な安心が同居しているのかも。加工食品を獲得した引き替えに、生産から屠殺を経て調理されるまで、ようは「加工」される手前の「料理」を食卓の見えないところに押しやった。自宅からゴミを片付けるとき、自宅から「見えなくなる」ことが掃除であるかのように。自宅以外はゴミ箱であっても。
だからといって、「健康」に舵をきれば「自然」へと回帰させる。健康も自然も「」つき。すでに「手」がついている。
食べ物を生み育てる人たちが笑顔で手を土にまみれさせる環境。手をよごさない肥大化した組織が補助金や貸付で「農薬」と「減反」に関与し、それを受け入れるような「相互扶助」を少しずつ溶解できないだろうか。自分の住んでいる所で育てられる食べ物はそこで生産して食べる。あたりまえのようだけど、とても難しい。
医療も原料原産地の表示を義務付けよう
「すべてを信じる」か「すべてを疑う」、両極を思考に導いて中庸を導出する作業は厭わない、だけど両極の行動はちょっと苦手。とはいえ、医療に向きあう患者になったとき、「医療の境界を納得しつつ、境界の外側への思いを抱く」姿勢を保ちたい。矛盾を抱えて。謙虚と感謝。もちろん、「たまたま医者になってしまった」先生と出会わずにすませる狡知と。集合の全体は礼節、ただし、「そんな先生もいるよね」と受け流す力。
礼節と受け流す力は「ひとり」で涵養できない。それは人と人の脈から与えられたり、探しあてるもの。また「意識」して「見える」わけもなく、気付いたら「なんだか心地よい環境に身を置けてるなぁ」と他者から指摘されるぐらいがほどよい。自分が「なんだか心地よい環境に身を置いてるなぁ」と認知したら、それは疑わないと。そんなに易しくないはず。
加工食品も医療も妙案なんてない。ただ、「私から解き放たれた疑念はいつか私に突き刺さる。そのときの衝撃は放ったときよりも大きく、甚大な対価を求められる」と疑う今日このごろ。
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言葉の主人
- 2008-02-15 (金)
- IMHO
批判と自己言及のつづき。
「批判」は商品になったのかもしれない、と書いた。違うなぁと思いつつ。書いた。ケツふかなきゃ。統計なんてない、単なる感覚。ひとむかし前、「言葉はチカラ」があった。喧伝した新聞社の系列テレビは「言葉のチカラ」を誇示。誰かに「消費」させるために(参照: 古舘伊知郎氏はネタにされて視聴率を稼ぐ 報道ステーションの戦略)。
批判する人(当然私も含めて)の強みは言葉の主人が「自分」である点。批判はそれ自体なにも創造しない。創造をスルーして立て板に水のごとく単語を紡ぐ。何を批判して、あるいは何を話すか、すべてあらかめじめ理解している。予定調和。だから、批判している最中に「自分の声に耳を傾ける」仕草はない。自分の声が他者に届いて、やがて他者を起点に自分へ帰還するなんて夢にも想像しない。
私が畏怖する人々は共通している。創造。オリジナリティーじゃない。無から有、有から有、どちらでもかまわない。創造する人の言葉は「言葉」が主人。「自分」じゃない。だから、自分が次に何を語るかわからずにめちゃくちゃ。でも、その言葉が他者を魅了する。創造する人の入力と出力は一対一の関係にあらず。
言葉が私の主人
「言葉」を表現手段にしてしまうと、言葉をあやつる<私>が表出する。脳が司る。身体を動かせば気づく。言葉は欲望と絶望、不信と信頼のコイン。言葉が表現手段なら言葉にできないとき「何を」批判するのか。そもそも批判を構築する思考は調達されるのか?
言葉が私の主人で、言葉は私を閉じ込める。私の空間は「言葉」に囲われている。その囲いの外側から私を眺めようとしても、それは「言葉」の外側にある。
一番最初に言語を発した人は何を発声したのか私は知らない。「言葉」が持つ絶対不可視の出発点。
言語の境界が私の世界の境界
われわれに考えることのできないものをわれわれは考えることができず、したがってまた、われわれに考えることのできないものを語ることもできない。[...]世界とは私の世界である、ということは、言語(私の理解する限りでの言語しかない)の境界が世界の境界を示すという事実に現れている。形而上学的な主体は世界に帰属するものでなく、世界の境界なのである。論理哲学論考(ちくま学芸文庫) P.168
ラッセルの序文。論考もさっぱりだし、この序文もチンプンカンプン。まいった。思考をそのままパクった。
ただパクっただけでは芸がないのは承知。でもパクってやる。そして書きながらまたとんでもない批判が浮かぶ。
「自分の言語の境界が世界の境界」であるという認識を獲得させてくれるのは他者との対話であり、他者は「言葉の檻」から私を脱出させてくれる鍵をもっている、なんてね。あるわけないか。
他者との対話に絶望があり、その絶望の向こうに<私>を理解する欲望があるのじゃないかな。
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批判と自己言及
- 2008-02-10 (日)
- IMHO
F先生の批判社会 を拝読。はじめてお目にかかる言葉をたくさんもらった。うれしい、ぼちぼち学んでいきます。批判が社会を喰い尽くすを読み返していつもの命題に突き当たる。
三十路に抱えた命題。遅すぎるだろというツッコミは堪忍してください。当のエントリー自体が「批判」であるから、またその批判も社会を喰い尽くす。手強い相手だ。
踏み込むなら「批評と批判」を峻別して書かないと。でも書けないからスルーさせていただきます。そんな難題を解ける知性を宿してないので。
で、「ことば遊び」に戯れる。
命題の証明を担保するのは誰?
批判する人は、「ある命題が真」を証明するぞとがんばる。「医療、学校、役所といった公器を批判すれば、その批判によってシステムの脆弱は改善され効率が向上し利益を享受できる。だから我々の怒りは正当だ」という前提にたって証明しようと奮闘する。だけど、その証明が妥当性であるかどうかを判断するのは、「批判する人」じゃない、と私は思う。批判する人が定めた前提から証明まで、それを批判する人自身が「判断」してしまっている。他者の承認が欠落していないかなぁ。
判断するのは、「神の手」といったり、今なら「市場」とか。変数に市場が代入されると「原理主義」のスイッチがオンされて闘争がスタート。
独断と偏見。「ある命題が真」という証明を担保しているのは「全体知」。それは鵺のような存在。そしたらまた最初の命題に突き当たる。じゃぁ「全体知が真である」という証明を誰が担保するのか。誰にもできないだろう。それを「神」と代入しないでね(笑)
担保しようとすれば循環論証にストンと落ちる。
「全体知は真だ。だから正しい。なぜ正しいかというと真だからだ」
むちゃくちゃだ。でもありうる?! だって、結局、自分の耳と鼻と目と口、そして手足から「判断」しないと生活できない。ややこしい。
事実はひとつという誤謬
「事実はひとつ」だろうか? 事実はどこから発生して何に依拠しているのだろう?
社会はときに願望を「事実」と認定してしまう。ぱっと思いつくところでは、マイナスイオン とか。先頃、「科学的根拠なし」と東京都から勧告された。「東京都」ですよ。でも、どこかで「効果」を願望してたりしてへんかった? 社会の願望が閾値(それを定量化できるかどうかは謎)を超えたとき、願望が「事実」に。
ここ数年かな、ニュース番組を吟味するようになった。怖いから。映像と解説が懇切丁寧に流され、ときに批判もインストールされている報道番組。だけどそれらは「事実」なの?
「それはあなたたちの事実であって私の事実ではないのかも」
と気づいた。バカと己を罵る。いまごろ気づいたのかと。何度も。しつこく。マゾか、というとそうでもない。どちらかというとサド。ただ己の愚考はトコトンMの悪寒。せめるよ、己の馬鹿さ加減。ときに被害妄想が膨らむと、「それはF館さんやT紫さんの「意見」だろう」と暴れたり。こわいよな。自分の頭の中って。
BSやCSに加入していないのでNHKの19:00のニュースかニュースJapanぐらいだと、「そのまま」流すのは。これも自分で判断しただけで他人は違うだろうし。
批判の商品化
どうしてこれだけ批判が跋扈するのかな。それは先のエントリーでもふれた「批判のテンプレート化」。「おや、オレはこんなこと考えていたのか」と訝りながらキーボードを叩いていた。
批判がテンプレート化され、アクセスフリーになるとコピー&ペーストで商品化できる。ひょっとすると、批判は「商品」になったのかもしれない。購入して「消費」しちゃう。消費しちゃえば何も残らないし「言葉のチカラ」と喧伝するだけあってエコ。「何も創造しない」から。
批判が商品として成立するのは「市場」があるから。「価値」があると誰かが判断したから「市場」に投入される。そして「市場価値」に変換して形成されゆく。
でも、「批判が市場価値として成立する空間」そのものを問うなら、「批判」以外のたつきの道を私は確保しなくちゃいけない。「立ち位置が違うよ」というポジショニングトークでは「「批判が市場価値として成立する空間」の「中」にいる。自己撞着。
ただそのたつきの道を「言葉」にできないし、どういうふるまいがたつきの道であるのか。それを私は知らない。だからやっかい。
で、もう少し書きたいけどここまで。続きはのちほど。次は「批判する人」を司る「言葉」についてもがきたい。
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批判が社会を喰い尽くす
- 2008-02-08 (金)
- criticism
救急患者が複数の病院に受け入れを断られた末に死亡するケースが相次いだ大阪府内で、府が指定する「救急告示病院」270施設のうち6カ所が、今年に入って救急部門から撤退していたことがわかった。医師不足から夜間・休日の救急態勢を維持できなくなったのが主な理由。特に府南部で救急病院の減少が目立っており、患者の収容先探しが一層、困難になる恐れもある。
マスコミの方々はわかっているはず。「自分たちが批判すればするほど市民に悪影響を及ぼす」と。まさか、「批判すればするほどシステムは効率的に改善され市民に還元できる」と誤解していまい。もし誤解しているなら確信犯。
知識人は口々に「医療」を批判する。「人」を批判していない、「組織」を批判しているという自負。「公器」であればあるほど批判を強める。
年金もしかり。「年金制度は崩壊している」と電波にのせる。電波にのせられて「風評」はそのまま受け入れられる確率が高い。「風説の流布」になるわけもなく、若者の身体をつきぬけ、「ほらね、また年金納入率が下がったでしょ」と誇らしげ。よもや自分が「年金制度を崩壊させている」とは夢にも。
「医療」も「年金」も電波にのせて意気揚々と語る人は「再建策」を提示しない。「それを考えるのは公器だ」と言わんばかり。
批判=改革の信仰
医療、学校、役所といった公器を批判すれば、その批判によってシステムの脆弱は改善され効率が向上し利益を享受できる。だから我々の怒りは正当だ。その明確すぎるロジックをもって「モンスター」は学校や医療の現場へ足を運ぶ。
この批判する人たちは共通している。「組織」のなかに「人」がいるという前提を知らない。「組織」を改善しようと勤しむけどそんな「組織」はどこにもない。人が組織というラベルをしょってるだけ。組織そのものが「意味」をもってシステムを作動させているのじゃない。それを知らず「組織」を攻撃、当の組織は何ら変わらず、「中の人」が抜けていく。そして、「組織」は残る。
「私が批判すれば、”私以外”の人がシステムを健全化させる」という当事者意識の欠落。
批判のテンプレート化
そしていまや「批判」はテンプレート化され、誰でも利用できるようになった。アクセスフリーの批判。
批判の構造は、批判される「対象」があってはじめて成立する。「対象」というのは「受け止める人」。「組織」じゃない。なのにその「批判を受け止める人」を再生産する力を「公器」は失いつつある。危機は公器の「内部」にまで浸透している。「公器」の中の人がひとたび公器から抜け出したら批判する。仕事でクレームを受ける人が余暇でクレームをつけるように。
眺めてみたい。社会の成員が「批判する人」になったとき、「何を」批判するのだろう?
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報道が医療の崩壊を手助け
- 2008-01-04 (金)
- flash
システムの問題であって、医師やスタッフの方々の不手際じゃない。年末年始関係なく前線で激闘してくださっている。報道はそろそろ気づいているはず。自分たちがミスリードさせた結果、今、現場は未曾有の不信に包まれていることを。でもやめない。週刊誌のような見出しが跋扈。
救急隊が同10時33分に事故現場に到着。西村さんは胸を強く打って危険な状態だったが、5カ所の救命救急センターが受け入れを断った。6カ所目に同府吹田市の府済生会千里病院併設の千里救命救急センターが受け入れを了承。救急隊は午後11時に現場を出発し、11時35分に西村さんを同センターに運び込んだ。河内署の話では、西村さんは事故直後「大丈夫」と話していたというが、搬送後の3日午前1時40分過ぎ、大動脈損傷による出血多量で死亡した。
西村さんの長男(27)は、搬送先の病院の医師から「到着時に意識がなく傷は心臓に達しているため、手術が難しい状態だった」と説明を受けたという。「近くで受け入れてもらえなかったのは悔しいが、正当な理由があるのなら、あきらめざるを得ない」と話した。
遺族の方々にとってどのような事由であれ身近な人を亡くすのは絶望の淵に立たされる。ただただ手を合わせるのみ。
毎日と朝日を比較。朝日は自重した印象を受ける。少し冷静になって、死因を事故の因果関係から説明しようとするあがきが。他方、毎日はというと、西村さんは事故直後「大丈夫」と話していたというがのくだりがあざとい。
報道はなぜ伝えようとしない。医療体制が崩壊に向かっている中、本来受診する必要もない人が来院している事実に。視聴者を批判する勇気をもたない。
「長寿であること、健康であること」が信仰の対象になった。宗教よりも手強い。アンタッチャブルな”神”を創造した。メディアが。
長寿であること=数値、健康であること=数値。すべてを否定しない。だが、一歳でも長く生きようとすることに”だけ”腐心する、あるいは一キロでも軽く、一パーセントでも低くくと体重計にのる。
報道が医療の崩壊を手助している、それを報道自身は気づいている。なのに止めない。そこに「何か」がある。
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乗客が飛行機を飛ばす
- 2007-12-22 (土)
- flash
21日午後7時35分ごろ、関西空港発那覇行きのJAL2579便(乗客147人)が那覇空港の天候不良のため、鹿児島県霧島市の鹿児島空港に臨時着陸した。ところが、関空に引き返そうとするJAL側と那覇行きを求める乗客との間で約3時間押し問答となり、同機は午後11時ごろ那覇に向けて再出発した。JALが乗客の圧力に押し切られた格好だ。[...]鹿児島に着陸した後、那覇で待つ知人らから電話で「航空機が次々に着陸している」と知らされた一部の乗客が「那覇へ飛べるじゃないか」とJAL側に抗議。搭乗口の周辺で「関空に戻るなら乗らない」と押し問答になり、怒声も上がったという。
コレ、文脈がわからない。書いてない部分に何があったのか推測できないので、そのまま受け取ると、「とんでもない世の中になったもんだ」とヤレヤレ感が漂う。けど、現場はどうだったんでしょう。
ただ、飛行機の乗客とのトラブルは年々増加しているようですね。携帯電話にまつわるトラブルや泥酔して暴れたりむちゃくちゃな要求を口走ったりと。
Don’t be so jealous of other people. The grass always seems greener on the other side of the fence.
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