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大衆が不信を購入して社会が対価を支払う

妙案を提示できないので愚痴をこぼしたところで負がかかるだけ。だけどやっぱりしっくりこない。「まかせておけば大丈夫だよね」との頼りを裏切るふるまい、それを受けての疑う心、この両者が台頭する速度と濃度は無限に足を踏み入れた途端、社会的コストが増大へ向かうと痛感する。裏切りと疑心、どちらが先に生まれたのか知らない。コインの表裏。

中国産の具を日本に輸入して、日本でギョーザを製造すると、どこにも中国産の文字は表示されず、単に「製造者・〇〇」と日本企業の名前が表示される。日本で作られているが、ギョーザの具の産地(原料原産地)が表示されていないので、国産の野菜を使っているのか、中国産の野菜を使っているのかはわからない。

via: 【食にメス】原料原産地表示 隠されてしまう中国産

だったら、「加工してあるものも表示しようよ」とか「まどろっこしいから全部表示しようと」と切り出すと、企業はたまったものじゃない。ただ、自業自得と非難されてもしょうがない。やっぱり、悲鳴をあげた。

こうした現状の食品表示は問題だとして、東京都は「加工食品すべての原料原産地の表示を義務付けよう」と検討した。しかし、食品業界や国の「手間や労力がかかり売価に跳ね返る」とか「文字数が多くなり表示スペースがない」など、現実的でないという声に押され、冷凍食品など2、3種類の検討にトーンダウンしてしまった。

via: 【食にメス】原料原産地表示 隠されてしまう中国産

企業には、「加工食品で食卓に革命が起こった」わけで「どうせどの原産でも買うだろ」という適度な自負と過度な自信が同居しているのかも。あと、「だったら国産に切り替えたら、差額を販売価格に反映してもいいのかよ」という不信もあったり。そも、国産に切り替えた時点で、市場は供給不足で混乱すると思う。

消費者には、「便利だしおいしい」と「大企業が製造しているから安心」という適度な信用と過度な安心が同居しているのかも。加工食品を獲得した引き替えに、生産から屠殺を経て調理されるまで、ようは「加工」される手前の「料理」を食卓の見えないところに押しやった。自宅からゴミを片付けるとき、自宅から「見えなくなる」ことが掃除であるかのように。自宅以外はゴミ箱であっても。

だからといって、「健康」に舵をきれば「自然」へと回帰させる。健康も自然も「」つき。すでに「手」がついている。

食べ物を生み育てる人たちが笑顔で手を土にまみれさせる環境。手をよごさない肥大化した組織が補助金や貸付で「農薬」と「減反」に関与し、それを受け入れるような「相互扶助」を少しずつ溶解できないだろうか。自分の住んでいる所で育てられる食べ物はそこで生産して食べる。あたりまえのようだけど、とても難しい。

医療も原料原産地の表示を義務付けよう

「すべてを信じる」か「すべてを疑う」、両極を思考に導いて中庸を導出する作業は厭わない、だけど両極の行動はちょっと苦手。とはいえ、医療に向きあう患者になったとき、「医療の境界を納得しつつ、境界の外側への思いを抱く」姿勢を保ちたい。矛盾を抱えて。謙虚と感謝。もちろん、「たまたま医者になってしまった」先生と出会わずにすませる狡知と。集合の全体は礼節、ただし、「そんな先生もいるよね」と受け流す力。

礼節と受け流す力は「ひとり」で涵養できない。それは人と人の脈から与えられたり、探しあてるもの。また「意識」して「見える」わけもなく、気付いたら「なんだか心地よい環境に身を置けてるなぁ」と他者から指摘されるぐらいがほどよい。自分が「なんだか心地よい環境に身を置いてるなぁ」と認知したら、それは疑わないと。そんなに易しくないはず。

加工食品も医療も妙案なんてない。ただ、「私から解き放たれた疑念はいつか私に突き刺さる。そのときの衝撃は放ったときよりも大きく、甚大な対価を求められる」と疑う今日このごろ。 ;-)

山の世界

サクッと比叡山まで登山を。東塔・西塔・横川中塔の三塔を制覇。延べ10数キロぐらいの散歩。比叡山ってこれで4度目か5度目だけど、いつも思うこと。

  • 「信長公は随分過激なことをしたもんだ」
  • 「延暦寺東塔手前の最後の坂道は意図的に急勾配にしているのではないか」

昔の一部の寺は、それ自体が城塞の役割を果たしていたのではないかという意味が、山道を歩くとよくわかる。
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