Home > タグ > dialogue

dialogue

排泄行為と看護

[Review]: チーム・バチスタの栄光 を読了して白鳥圭輔の言葉が五臓六腑に染みこんできた。

すべての事象をありのままに見つめること。「厚生労働大臣官房秘書課付 技官 白鳥圭輔」

もっとも困難なふるまい。「ありのまま」見つめる。私は事象を見つめるとき、「何か」が侵襲する。先入観や色眼鏡、原理思想などなど。そうやって自分の「型」に対象や他人をはめ込める。はめ込めて「わかった」と錯誤を犯し、他者を自分の視界から葬り去る。

排泄行為と看護

先日、『安楽病棟』読了した。高齢化社会を迎え、3人に1人が痴呆になるといわれる。だけど、痴呆は別世界のよう。それに覆い被さる「老い」もアンチエイジング。そして死はタブーに。別世界で看護する人々。ともすれば痴呆と老い、そして死は観念的に語られがち。でも、現場は糞尿にまみれる。人間の根幹である「排泄行為」。

患者さんの排泄行為にわたしたちが関与することで、患者さんをより深く知るようになるという点です。通常の看護場面において、わたしたちが排泄にまで立ち入る機会はそう多くありません。寝たきりの患者さんにおむつを当てたり、替えたりという行為はもちろんあります。しかしそれらの行為というのは、あくまで機械的にしがちであり、看護者と患者の間の人間的な交流は不思議なくらい希薄です。

それに比べると、排尿誘導は決して機械的にはできません。あくまで人間と人間のふれ合いの上にしか成立しないものです。そのうえ、排泄行為にはその患者さんの人となりがよく反映されます。トイレの戸の開け方、スカートのおろし方、下着の脱ぎ方、排尿のあとを紙でふく仕草、戸の閉め方など、ひとつひとつの動作に他のどんな行為よりも患者さんの個人史が出ます。 『安楽病棟』P.267

痴呆の人は排泄に個人史をもつ。機械的に排泄誘導しても誰も応じない。安楽病棟にいる人の個人史を観察しなければならない。元校長先生だった男性患者に、「トイレに行きますよ」と手を引っ張ると怒られる。子ども扱いされているようで。だから

もうすぐ会議ですから、その前にトイレに行っておいて下さい

と声をかける。「おやつを貰いに行きましょう」と騙さなければ行かない人もいる。排泄から

  1. 生活史を深く理解すること
  2. 生活史からその人個人に適した接し方が他の看護面での接し方にも影響を及ぼし、その結果、きめの細かいケアが可能になること
  3. 患者観察が濃厚になること

を学び、ケアへいかす。やがて、「自分自身で排泄ができるようになる」と痴呆の人は自尊心を回復する。最後に皮肉な結果として、看護する側が「ケアされている」ことに気づく。

茶会に招くようなケア

痴呆は十人十色。誰一人として同じ痴呆はない。排泄にまつわるふるまいも同様。便失禁したとき、知らんふりする人や他人へと責任転嫁する人、素直に謝る人もいれば反対に怒鳴る人も。そんな人たちを看護主任が茶会へと招いた。

やっているうちに、前に坐っているのが患者さんとは思われなくなってきたものーーーーー[...] そうね、普通にお招きしたお客様と同じになってきた。おそらく、わたしたちの日常の看護や介護の仕事も、そんな気持ちでしないといけないのよね。頭から患者さん扱いするのではなく、一期一会のお客様、友人として接するということ、いい経験をさせてもらっちゃった 『安楽病棟』P.460

ビジネスの臭いがするお客様じゃない。お招きした客人。歓待の本質。生涯ただ一度まみえる、一期一会とありのまま見つめることはつがいなのかも。一期一会だからこそありのまま。おのれ自身を何かの帰属へのこだわりから解き放ち、異他化させる。病院にやってきたから「患者」扱いしてしまうと視野が狭くなる。

「授かる」と「召される」を耳にしなくなった。「産む」あるいは「つくる」と言い、「逝く」という。自分が主になった。主は観を持ち、ありのままを歪めていく。

「ケアすることで自分がケアされる」—– わたしが真摯に受け止めなければならない言葉。そして「ケア」を日本語に脳内で変換し、身体で感じるように翻訳しなければならない。

すべての事象をありのままに見つめること。

地域住民が小児科を守る

神戸新聞が取材し続けている兵庫県立柏原病院に「住民が奇跡起こした」と小児科医が着任してきた。

医師の負担軽減を目指す丹波市の母親グループの活動に共感した小児科医の石井良樹さん(32)=伊丹市出身=が、岡山県内の大学付属病院から同市柏原町の兵庫県立柏原病院に転勤を希望し、四月から常勤医として働いている。兵庫県病院局によると、他府県の大学医局を離れ、県内の地方に進んで赴任するのは極めてまれという。

via: 神戸新聞|社会|「住民が奇跡起こした」 小児科医が着任 丹波市

県立柏原病院の小児科を守る会は地域の母親が子どもたちを守り、小児科医の負担を軽減しようと結成された。医師の先生方からすればまさに「奇跡」と表したくなるのだろう。それぐらい地域の小児科は疲弊していたのかと再認識。

小児救急患者の大半が軽症とされる中、患者側が受診のあり方を見直し、小児科医の負担を軽減しようとする母親たちの活動が丹波市で実を結んでいる。可能な限り「かかりつけ医」で受診し、診察時間外の利用を避けるよう訴えた結果、同市の県立柏原病院では軽症の小児患者が駆け込むケースが激減。緊急性の低い患者側が受診を控える例は全国でも珍しく、医師不足の歯止め策としても期待されている。

via: 神戸新聞|社会|「コンビニ感覚の受診やめよう」 医療守る丹波の住民ら

医師や医療機関が悪者のように仕立て上げられる報道が目につくなか、患者の実態を報じるメディアもある。産婦人科なら「産み逃げ」や「コンビニ出産」、救急医療なら「コンビニ受診」。救急車は「タクシー」と化した。医療現場に携わる医師やスタッフの方々を案じると言葉もない。崩壊が目の前にやってきている。このままでは小児科がなくなってしまうのでは」という危機感を持った主婦が立ち上がり会を結成。「コンビニ受診をひかえる」よう呼びかけた。

「このままでは小児科がなくなってしまうのでは」という危機感を持った同市の主婦杉浦保子さん(28)は今年4月、母親たち約10人と「県立柏原病院の小児科を守る会」を結成。街頭などで小児科医派遣を要請する署名活動を行うとともに、「コンビニ感覚での病院受診を控えるようにしませんか」「かかりつけ医院を持ちましょう」などと書かれたビラを配り、利用する側の意識変革も訴えた。

via: 軽症でも安易に救急外来「コンビニ受診」減らそう

ただよびかけるだけでなく、子どもが熱を出したり、咳き込んだりしたときの対応を目安にしたチャートを作成して親に渡すといった活動に取り組んでいる。それら以上に私が感銘を受けたのは、医師への感謝

同会は医師に感謝の気持ちを伝えることも重視する。「先生、いつもありがとう」。母親から集めたメッセージカードが同病院内に掲示されている。病院や診療所の医師らに年賀状も出した。

via: 神戸新聞|社会|「コンビニ感覚の受診やめよう」 医療守る丹波の住民ら

ときおりインタビューで「診てやれない」という言葉に遭遇する。前後の脈絡を省いた判断は短見だけど、私は「上から目線」の医師の言葉に過剰に反応する。ただ幸いにも今まで出会った先生方からそんな目線を受けたことがない。ほんとうにありがたいと感じる。

医療の現場に「患者が主人公」なんてフレーズはナンセンスだと思う。また「医師がサポート」もどこか遠い。それぞれが果たせる役割を全力でぶつける場を両者がどうやって築いていくのか。そして互いに気づいていくのか。それが問題だと思う。先生方が「地域医療」に懸命に取り組んでも患者が気づかない。患者が不安を抱えていても先生方が気づかない。

お母さんたちは自分たちの子どもを守るため、先生を信頼することから歩み始めた。なにより自分たちが住む地域を信じる。それがスタートラインだと思う。

地域には「かかわる」という言葉がやってくる。それは重たい。だけど重たければ重たいほど優しい。厳しければ厳しいほど優しい。「かかわる」ことを抜きに地域は存在しない。「かかわる」がない地域、それは地点にすぎない。

Re: 批判が社会を喰い尽くす

批判が社会を喰い尽くすコメントをいただいたので一読して吃驚した。私ごときでは回答できない問題提起。ただただありがたいなぁと感謝。少しずつ少しずつ自分で考えているので、コメントされた方が注釈している『意味に餓える社会』を知らなかった。管理人さんの問題提起でまたひとつ考えることがふえた。それがとてもうれしい。答えは何年先になるか。辿り着けないかも。どうなるか何もわからない。

管理人さんは慶應義塾大学に在学とのこと。ステキなテキストを書くなぁと感じ入った。私からすればはるか高度な文章を書いていらっしゃる(”はるか”もおかしいな、どうも形容詞がしっくりこない)。管理人さんの知性は、この先もいかなる言葉を紡ぐのかとワクワクしてしまう。

次の文章に震えた。

情報交換や情報収集に希望が無いとすれば、次に考え得るのは意見交換や議論です。しかし、インターネットに専門家に対する非専門家、知識人に対する大衆(?)が包摂されている以上、自分自身が望むような水準(レベル)で意見交換や議論を展開していくことは、困難極まりありません。

何故か。<複雑高度>な寄与を、<単純>化することで、<万人共通>の事柄として取り扱うことが、不可能だからです。複雑高度な現象を語るには、素人や非専門家に退場して貰う必要があります。単純な話し合いで事を済ませたいのであれば、専門家や知識人に黙って貰わなければなりません。万人共通で標準化したいのであれば、複雑にも単純にも偏っては駄目です。

via: 「無駄話」としてのブログを。 - ポスト・ヒューマンの生命デザイン

今回の問題提起は<複雑高度な現象>だから素人の私は退場しなくちゃならない。私と管理人さんとの間にあるのは能力と現象の差異。いや、差異は失礼。能力の落差であり高低だ。ひとつひとつの単語の意味は理解できる。でも単語と単語とつなげる文章になると暗闇に入り、ましてや段落になると世界もなくなる。でもそれが他者なんだとうれしくなる。他者がもたらす「わからない」にふれたとき私が目覚める。

レヴィナスの「境界を接していない」という物言い、そして、<他者>の異邦性とは<他者>を<自我>、私の思考、私の所有物に還元することの不可能であり、それゆえ<他者>の異邦性はほかでもない私の自発性の審問として、倫理として成就されるとは、今回のような経験を指すのかも、とひょっとしたら一割ぐらい理解できたりしてとほくそ笑んだ。

管理人さんという他者から他の私がやってきた。他の私が私を突き刺したとき、私をながめる。でも、その私を眺める私は?

タマネギの薄皮をはぐように一枚一枚をはぐ。無限がぱっくり口をひらいている。いつか皮はなくなるはずなのに。でも、その私すらも「わたしが生きていようといまいと、<わたしはある>は意味作用をおこなう」私じゃない。

今の私はやっぱりヒトから目が離せない。

客観性の幻想をつかむ努力

国会議員は誰から報酬を得ているのか。もし、稲田議員の言うとおり「検閲」でないとしたら、「稲田議員に給料を支払うことは適正か確認したい」という理由で検閲させてもらえるのだろうか。そして、稲田議員の言論は「客観性」を有しているかどうかは不明と指摘されれば、稲田議員はどう受け止めるのだろう。「客観性」なんてナイ。

稲田議員は「表現の自由や上映を制限する意図はまったくない。でも、助成金の支払われ方がおかしいと取り上げられている問題を議員として検証することはできる」。

アルゴ側は「事実上の検閲だ」と反発していたが、「問題ある作品という風評が独り歩きするよりは、より多くの立場の人に見てもらった方がよい」と判断し、文化庁と相談のうえで全議員に案内を送った。会場は、同庁が稲田議員らのために既におさえていた都内のホールを使う。

via: asahi.com: 靖国映画「事前試写を」 自民議員が要求、全議員対象に

「検閲」でないとしたら、放映後に「検証」すればいい。内容を「反日的」と聞いた一部の自民党議員が、文化庁を通じて試写を求めた行為自体が、表現の自由や上映を制限してる。ただし、「反日的」という言葉には、朝日の「意図」が透けて見えるから辟易。もうすこし大人な書き方できないかなぁとこちらにも中指を突き立てる :mad:

立場というか、ひっくり返すと、こういう言葉も「スルー」されずに検閲されるのかもしれない。

海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故について、自民党の大前繁雄衆院議員(65)は8日、神戸市内であった党兵庫県連の会合で「交通事故のようなもの。他の漁船が(イージス艦を)かわしているのに、あの船だけかわしていない」などと述べ、清徳丸にも責任があると主張した。

via: livedoor ニュース - 「清徳丸にも重大な過失」大前議員が主張

「なんでまたこんな時にそんなことを口にする」と嘆く一方、「まわりの雰囲気を鑑みれば指摘できない可能性を口にする」と驚く、二つの感情が自分のなかで同居している。議員の言葉を狩るつもりはない。ちょっと言い方には首をかしげるけど。むしろ、そういう可能性を吟味する努力を「報道」が怠っているところに危惧を。

報道にその役割を求めるのは失礼なのだろう。

客観性の幻想を追い求める

JR福知山線脱線事故をはじめ地域社会をゆるがす事故が発生したとき、「客観性の幻想」を追い求める人たちに敬意を払う。稲田議員の言う客観性にはまった同意しない。とはいえ、(行政の肥大化を心配しつつ)海外のように「客観性をとことん追求する」機関を切望する自分もいたり。

「客観的」と判断した「客観性」を審判するのは誰かというタマネギの皮むきは残る。でも、その皮むきをする努力を怠れば、料理は難しい。「加工品をチン」が多勢になると、言葉にだけ反応したり、思想にだけ反発したり。「狩猟」が跋扈する。

とかく時間の流れはますますはやくなる。「時間」と「言動」の速度を一致させようと腐心した結果、何も残らず、「停止」だけが足跡を残す :cry:

大衆が不信を購入して社会が対価を支払う

妙案を提示できないので愚痴をこぼしたところで負がかかるだけ。だけどやっぱりしっくりこない。「まかせておけば大丈夫だよね」との頼りを裏切るふるまい、それを受けての疑う心、この両者が台頭する速度と濃度は無限に足を踏み入れた途端、社会的コストが増大へ向かうと痛感する。裏切りと疑心、どちらが先に生まれたのか知らない。コインの表裏。

中国産の具を日本に輸入して、日本でギョーザを製造すると、どこにも中国産の文字は表示されず、単に「製造者・〇〇」と日本企業の名前が表示される。日本で作られているが、ギョーザの具の産地(原料原産地)が表示されていないので、国産の野菜を使っているのか、中国産の野菜を使っているのかはわからない。

via: 【食にメス】原料原産地表示 隠されてしまう中国産

だったら、「加工してあるものも表示しようよ」とか「まどろっこしいから全部表示しようと」と切り出すと、企業はたまったものじゃない。ただ、自業自得と非難されてもしょうがない。やっぱり、悲鳴をあげた。

こうした現状の食品表示は問題だとして、東京都は「加工食品すべての原料原産地の表示を義務付けよう」と検討した。しかし、食品業界や国の「手間や労力がかかり売価に跳ね返る」とか「文字数が多くなり表示スペースがない」など、現実的でないという声に押され、冷凍食品など2、3種類の検討にトーンダウンしてしまった。

via: 【食にメス】原料原産地表示 隠されてしまう中国産

企業には、「加工食品で食卓に革命が起こった」わけで「どうせどの原産でも買うだろ」という適度な自負と過度な自信が同居しているのかも。あと、「だったら国産に切り替えたら、差額を販売価格に反映してもいいのかよ」という不信もあったり。そも、国産に切り替えた時点で、市場は供給不足で混乱すると思う。

消費者には、「便利だしおいしい」と「大企業が製造しているから安心」という適度な信用と過度な安心が同居しているのかも。加工食品を獲得した引き替えに、生産から屠殺を経て調理されるまで、ようは「加工」される手前の「料理」を食卓の見えないところに押しやった。自宅からゴミを片付けるとき、自宅から「見えなくなる」ことが掃除であるかのように。自宅以外はゴミ箱であっても。

だからといって、「健康」に舵をきれば「自然」へと回帰させる。健康も自然も「」つき。すでに「手」がついている。

食べ物を生み育てる人たちが笑顔で手を土にまみれさせる環境。手をよごさない肥大化した組織が補助金や貸付で「農薬」と「減反」に関与し、それを受け入れるような「相互扶助」を少しずつ溶解できないだろうか。自分の住んでいる所で育てられる食べ物はそこで生産して食べる。あたりまえのようだけど、とても難しい。

医療も原料原産地の表示を義務付けよう

「すべてを信じる」か「すべてを疑う」、両極を思考に導いて中庸を導出する作業は厭わない、だけど両極の行動はちょっと苦手。とはいえ、医療に向きあう患者になったとき、「医療の境界を納得しつつ、境界の外側への思いを抱く」姿勢を保ちたい。矛盾を抱えて。謙虚と感謝。もちろん、「たまたま医者になってしまった」先生と出会わずにすませる狡知と。集合の全体は礼節、ただし、「そんな先生もいるよね」と受け流す力。

礼節と受け流す力は「ひとり」で涵養できない。それは人と人の脈から与えられたり、探しあてるもの。また「意識」して「見える」わけもなく、気付いたら「なんだか心地よい環境に身を置けてるなぁ」と他者から指摘されるぐらいがほどよい。自分が「なんだか心地よい環境に身を置いてるなぁ」と認知したら、それは疑わないと。そんなに易しくないはず。

加工食品も医療も妙案なんてない。ただ、「私から解き放たれた疑念はいつか私に突き刺さる。そのときの衝撃は放ったときよりも大きく、甚大な対価を求められる」と疑う今日このごろ。 ;-)

きちんと説明しないと

mixiが喧しい。ブログ界隈も大勢は反発したり、揶揄したり、批判したり、で、その現象を諌めるブログもあったり百家争鳴。

ミクシィは3月4日、前日付けで告知したSNS「mixi」の新規約(4月1日から適用)の著作権に関する条項について説明した。「規約改定後はユーザーのmixi日記が勝手に書籍化されるのではないか」とネットで騒動になっていたが、「ユーザーの了解なしに書籍化などは行わない」と明言し、改定の意図を説明した。

via: 「mixi日記、無断書籍化はしない」――規約改定の意図をミクシィが説明 - ITmedia News

この新規約に「おいおい、勝手に出版されるのかよ」とか「写真集を出版されちゃうの」なんて声が。勝手に商品化すんなよと怒り心頭。

(あわてて)mixiの広報がフォロー。

「そんなつもりはなく、ミクシィのサービス内で作成した日記、著作物などの情報については、従来通りユーザーが権利を有することに変わりはない」という。また、規約の目的については、「以下の対応について同意いただくもので、当社が無断で使用することではありません」としており

via: 【レポート】ミクシィの「著作者人格権」不行使規約は見せ球? 批判に「変更ありうる」 (1) 「日記を勝手に商品化されるのでは? 」と非難ごうごう

著作権はネット界隈では「盛り上がる」トピックスで、特に「規制」へ向かう記事は批判にさらされる。そのハンドリングを誤れば祭りにも。mixiは、ネットのど真ん中にいるわけで、広報は「反応」を吟味していたはず。

「まぁ、新規約に反発するユーザーはいるけど、こっちもそんな無断で出版なんてしないって。だって、そんなことしたら、ユーザーが激怒して退会者続出だし。そしたらサービスもたないって。そんなな自分の首を自分でしめるようなことしないって」っていうmixiの思惑をユーザーは汲み取ってくれるだろう、とmixiの広報は踏んでたりしたら、私が足跡ふんでやるよ :-)

あいかわらずいい切れ味のコメント

mixiがそういう手段を知ってか知らずか使わずに、逃げもせず真正面から利用規約の変更で「お前らの日記でコミュニティ再活性化させないと俺たち株価やべえんだ。そこんとこ空気読めよ」と言い切るかの如き対墺に出たのは悲しいぐらいの誠実さの現われだと私は考えてしまう。計算づくだったらそんなことしない。ダマでやる。絶対に。

via: 切込隊長BLOG(ブログ): この時期に敢えて地雷を踏みに逝ったmixiは偉い

上場企業の対応としてはおそまつと言われかねない。でも、その前に、ちょっと不安。なんだか脊髄反射というか、ネタのエントリーアップのためにはスピードが必要で、だから直感で書くしかないけど、「へぇ」みたいなクールな対応もあってほしいなぁと。「もうmixi退会します」なんて見かけると、別に好き好きなんで、「あっ、そう」なんだけど、だったら、もっと前に退会してればいいというか、結局、「背中を押してくれる」キッカケがほしかったにすぎないのかなぁと。

いい材料を与えてくれたので、またお客さまのミーティングで話すつもり。「案外、伝えるのが難しい」世相になってるのかもしれないって。

言葉の主人

批判と自己言及のつづき。

「批判」は商品になったのかもしれない、と書いた。違うなぁと思いつつ。書いた。ケツふかなきゃ。統計なんてない、単なる感覚。ひとむかし前、「言葉はチカラ」があった。喧伝した新聞社の系列テレビは「言葉のチカラ」を誇示。誰かに「消費」させるために(参照: 古舘伊知郎氏はネタにされて視聴率を稼ぐ 報道ステーションの戦略)。

批判する人(当然私も含めて)の強みは言葉の主人が「自分」である点。批判はそれ自体なにも創造しない。創造をスルーして立て板に水のごとく単語を紡ぐ。何を批判して、あるいは何を話すか、すべてあらかめじめ理解している。予定調和。だから、批判している最中に「自分の声に耳を傾ける」仕草はない。自分の声が他者に届いて、やがて他者を起点に自分へ帰還するなんて夢にも想像しない。

私が畏怖する人々は共通している。創造。オリジナリティーじゃない。無から有、有から有、どちらでもかまわない。創造する人の言葉は「言葉」が主人。「自分」じゃない。だから、自分が次に何を語るかわからずにめちゃくちゃ。でも、その言葉が他者を魅了する。創造する人の入力と出力は一対一の関係にあらず。

言葉が私の主人

「言葉」を表現手段にしてしまうと、言葉をあやつる<私>が表出する。脳が司る。身体を動かせば気づく。言葉は欲望と絶望、不信と信頼のコイン。言葉が表現手段なら言葉にできないとき「何を」批判するのか。そもそも批判を構築する思考は調達されるのか?

言葉が私の主人で、言葉は私を閉じ込める。私の空間は「言葉」に囲われている。その囲いの外側から私を眺めようとしても、それは「言葉」の外側にある。

一番最初に言語を発した人は何を発声したのか私は知らない。「言葉」が持つ絶対不可視の出発点。

言語の境界が私の世界の境界

われわれに考えることのできないものをわれわれは考えることができず、したがってまた、われわれに考えることのできないものを語ることもできない。[...]世界とは私の世界である、ということは、言語(私の理解する限りでの言語しかない)の境界が世界の境界を示すという事実に現れている。形而上学的な主体は世界に帰属するものでなく、世界の境界なのである。論理哲学論考(ちくま学芸文庫) P.168

ラッセルの序文。論考もさっぱりだし、この序文もチンプンカンプン。まいった。思考をそのままパクった。

ただパクっただけでは芸がないのは承知。でもパクってやる。そして書きながらまたとんでもない批判が浮かぶ。

「自分の言語の境界が世界の境界」であるという認識を獲得させてくれるのは他者との対話であり、他者は「言葉の檻」から私を脱出させてくれる鍵をもっている、なんてね。あるわけないか。

他者との対話に絶望があり、その絶望の向こうに<私>を理解する欲望があるのじゃないかな。

批判と自己言及

F先生の批判社会 を拝読。はじめてお目にかかる言葉をたくさんもらった。うれしい、ぼちぼち学んでいきます。批判が社会を喰い尽くすを読み返していつもの命題に突き当たる。

自己言及のパラドックス

三十路に抱えた命題。遅すぎるだろというツッコミは堪忍してください。当のエントリー自体が「批判」であるから、またその批判も社会を喰い尽くす。手強い相手だ。

踏み込むなら「批評と批判」を峻別して書かないと。でも書けないからスルーさせていただきます。そんな難題を解ける知性を宿してないので。

で、「ことば遊び」に戯れる。

命題の証明を担保するのは誰?

批判する人は、「ある命題が真」を証明するぞとがんばる。「医療、学校、役所といった公器を批判すれば、その批判によってシステムの脆弱は改善され効率が向上し利益を享受できる。だから我々の怒りは正当だ」という前提にたって証明しようと奮闘する。だけど、その証明が妥当性であるかどうかを判断するのは、「批判する人」じゃない、と私は思う。批判する人が定めた前提から証明まで、それを批判する人自身が「判断」してしまっている。他者の承認が欠落していないかなぁ。

判断するのは、「神の手」といったり、今なら「市場」とか。変数に市場が代入されると「原理主義」のスイッチがオンされて闘争がスタート。

独断と偏見。「ある命題が真」という証明を担保しているのは「全体知」。それは鵺のような存在。そしたらまた最初の命題に突き当たる。じゃぁ「全体知が真である」という証明を誰が担保するのか。誰にもできないだろう。それを「神」と代入しないでね(笑)

担保しようとすれば循環論証にストンと落ちる。

「全体知は真だ。だから正しい。なぜ正しいかというと真だからだ」

むちゃくちゃだ。でもありうる?! だって、結局、自分の耳と鼻と目と口、そして手足から「判断」しないと生活できない。ややこしい。

事実はひとつという誤謬

「事実はひとつ」だろうか? 事実はどこから発生して何に依拠しているのだろう?

社会はときに願望を「事実」と認定してしまう。ぱっと思いつくところでは、マイナスイオン とか。先頃、「科学的根拠なし」と東京都から勧告された。「東京都」ですよ。でも、どこかで「効果」を願望してたりしてへんかった? 社会の願望が閾値(それを定量化できるかどうかは謎)を超えたとき、願望が「事実」に。

ここ数年かな、ニュース番組を吟味するようになった。怖いから。映像と解説が懇切丁寧に流され、ときに批判もインストールされている報道番組。だけどそれらは「事実」なの?

「それはあなたたちの事実であって私の事実ではないのかも」

と気づいた。バカと己を罵る。いまごろ気づいたのかと。何度も。しつこく。マゾか、というとそうでもない。どちらかというとサド。ただ己の愚考はトコトンMの悪寒。せめるよ、己の馬鹿さ加減。ときに被害妄想が膨らむと、「それはF館さんやT紫さんの「意見」だろう」と暴れたり。こわいよな。自分の頭の中って。

BSやCSに加入していないのでNHKの19:00のニュースかニュースJapanぐらいだと、「そのまま」流すのは。これも自分で判断しただけで他人は違うだろうし。

批判の商品化

どうしてこれだけ批判が跋扈するのかな。それは先のエントリーでもふれた「批判のテンプレート化」。「おや、オレはこんなこと考えていたのか」と訝りながらキーボードを叩いていた。

批判がテンプレート化され、アクセスフリーになるとコピー&ペーストで商品化できる。ひょっとすると、批判は「商品」になったのかもしれない。購入して「消費」しちゃう。消費しちゃえば何も残らないし「言葉のチカラ」と喧伝するだけあってエコ。「何も創造しない」から。

批判が商品として成立するのは「市場」があるから。「価値」があると誰かが判断したから「市場」に投入される。そして「市場価値」に変換して形成されゆく。

でも、「批判が市場価値として成立する空間」そのものを問うなら、「批判」以外のたつきの道を私は確保しなくちゃいけない。「立ち位置が違うよ」というポジショニングトークでは「「批判が市場価値として成立する空間」の「中」にいる。自己撞着。

ただそのたつきの道を「言葉」にできないし、どういうふるまいがたつきの道であるのか。それを私は知らない。だからやっかい。

で、もう少し書きたいけどここまで。続きはのちほど。次は「批判する人」を司る「言葉」についてもがきたい。

批判が社会を喰い尽くす

大阪府の救急6病院が撤退 受け入れ不能問題が影響か

救急患者が複数の病院に受け入れを断られた末に死亡するケースが相次いだ大阪府内で、府が指定する「救急告示病院」270施設のうち6カ所が、今年に入って救急部門から撤退していたことがわかった。医師不足から夜間・休日の救急態勢を維持できなくなったのが主な理由。特に府南部で救急病院の減少が目立っており、患者の収容先探しが一層、困難になる恐れもある。

マスコミの方々はわかっているはず。「自分たちが批判すればするほど市民に悪影響を及ぼす」と。まさか、「批判すればするほどシステムは効率的に改善され市民に還元できる」と誤解していまい。もし誤解しているなら確信犯。

知識人は口々に「医療」を批判する。「人」を批判していない、「組織」を批判しているという自負。「公器」であればあるほど批判を強める。

年金もしかり。「年金制度は崩壊している」と電波にのせる。電波にのせられて「風評」はそのまま受け入れられる確率が高い。「風説の流布」になるわけもなく、若者の身体をつきぬけ、「ほらね、また年金納入率が下がったでしょ」と誇らしげ。よもや自分が「年金制度を崩壊させている」とは夢にも。

「医療」も「年金」も電波にのせて意気揚々と語る人は「再建策」を提示しない。「それを考えるのは公器だ」と言わんばかり。

批判=改革の信仰

医療、学校、役所といった公器を批判すれば、その批判によってシステムの脆弱は改善され効率が向上し利益を享受できる。だから我々の怒りは正当だ。その明確すぎるロジックをもって「モンスター」は学校や医療の現場へ足を運ぶ。

この批判する人たちは共通している。「組織」のなかに「人」がいるという前提を知らない。「組織」を改善しようと勤しむけどそんな「組織」はどこにもない。人が組織というラベルをしょってるだけ。組織そのものが「意味」をもってシステムを作動させているのじゃない。それを知らず「組織」を攻撃、当の組織は何ら変わらず、「中の人」が抜けていく。そして、「組織」は残る。

「私が批判すれば、”私以外”の人がシステムを健全化させる」という当事者意識の欠落。

批判のテンプレート化

そしていまや「批判」はテンプレート化され、誰でも利用できるようになった。アクセスフリーの批判。

批判の構造は、批判される「対象」があってはじめて成立する。「対象」というのは「受け止める人」。「組織」じゃない。なのにその「批判を受け止める人」を再生産する力を「公器」は失いつつある。危機は公器の「内部」にまで浸透している。「公器」の中の人がひとたび公器から抜け出したら批判する。仕事でクレームを受ける人が余暇でクレームをつけるように。

眺めてみたい。社会の成員が「批判する人」になったとき、「何を」批判するのだろう?

F先生はステキだ

F先生のエントリーを拝読。何度も何度も読み返す。書いてないことと書いている向こう側の意味を掴みたくて必死になった。目を皿にしても戯奴にはわからない。

F先生が手に掬われた言葉と意味、その数は私の比じゃない。ましてF先生の行動はさらにあざやかな色を帯びていらっしゃるはず。だとしたら私がもっているアナロジーから深淵をのぞこうとしても、私の現象の埒外にあるのかもしれない。想像を超えた事象。

F先生のもとを訪れる来院者がうらやましいなぁと感じた。「呪縛」と「開放」、F先生の真率な苦しみに絶対の信頼をよせている(天の邪鬼な私は信頼するけど信用されるのは苦手)。矛盾を抱えず立て板に水のように理論を話したり、知識を獲得して行動を置き去りにしている人がいる。いずれも私の集合と交わらない。

矛盾が言葉と行動の源泉だと思う。

普遍性や客観性を主題にした「科学的な知」が、見過ごしてきた「個別性」「主体性」が発生しうる個々の局面に「臨床」がある。『生のあり方と「Well-Being」』

私の日常は「「個別性」と「主体性」の個々の局面」のひとつにすぎない。膨大な「個々の局面」があり、その光景を前にしたとき科学の知性は「再現性」と「普遍性」を選択した。秩序とシステム、それを見失えば「一回性」の前に科学の知性は立ちつくしてしまう。

普遍と個別、対峙させてはならない。どう溶解させるか。社会はまだその解の方程式を発見していない。

それは「言葉」に生成されていない。

「言葉」はそれ自体ラベルにすぎないと思う。F先生と来院者、両者に言葉がある。そこに行動が介在したとき、「意味」を持つ。意味が多義性に発展したとき自己増殖し、やがて意味が両者のもとへ帰着してあたらしい「言葉」が生まれるのでないかと期待してやまない。

私はF先生が大好きだ。

なぜなら、言葉というキャンバスに意味という絵の具をつかって「生のあり方」を創造していく。その描く姿は苦悩でしかない。

苦悩を抱えている姿がF先生の生を鮮やかに映し出し、そばにいる人を惹きつける。想像を絶するほど惹きつける。

もう少し書きたいけど、もうちょっとまとまってからにしたいので、とりあえずはここまでです。

Home > Tags > dialogue

Feeds
Meta
affiliate

Return to page top