街場の現代思想

街場の現代思想 (文春文庫)

筆者は本ブログに何度もご登場いただいている内田樹先生。先生の著作を最新から処女作へと目下読み漁っている。そして幾度となく読み返している。同一図書を二度、三度程度読むというのは今までもあったが、枕元において焼酎のつまみに何度も読むのはおそらく初めてではないだろうか。

ただし、”勉強になる””面白い”などと感想できる知性を愚生は備えていない。にもかかわらず、水を飲むように吸収できまいかと蛮勇をふるいページをめくる。が、推して知るべし、門前払いを喰らい、己を痛めつけた痛快さが五臓六腑に染みわたる。そんな知の堆積である(うん?自分でも意味不明な例えになった)。

「勝ち組・負け組」ならぬ、生まれついての「バカ組・利口組」という、身も蓋もない「新しい階層社会」が出現しつつある!この事態を避けるためには、流動性の高い社会、すなわち「プチ文化資本家」たちが多数を占める「文化的一億総中流化」社会を目指すべき。本書の前半では、「おじさん内田」がそうした社会の「仕組み」を解説、後半では人生相談式で、「街場の常識」を読み解いていく。給与、転職、ワーク・モチベーション、結婚、離婚、言葉遣い・・・。身の回りの根源的な問いが、初めて腑に落ちて納得できる本。

『街場の現代思想』

内田先生が執筆している書籍のうち数冊は、ウェブサイトの日記の焼き直しである。本書も前半部分がそれに該当し、毎日読んでいる方なら、一度は目にしていると思う。にもかかわらず色褪せた感じがしないところに引き寄せられる。

魅了される理由を愚考すると、主題が首尾一貫して「首尾一貫していない」という特徴を挙げられまいか。『街場の現代思想』という書名は、範疇が広すぎて一見なんのことかわからない。内容も多方面に予告なしに東奔西走する。

察するに何か一つの主題を扱うのではなく、眼前におきる社会現象を、専門のフランス現代思想・映画論・武道論などを駆使して淡々と「思想」していく。加えて批評性を備えたその思想へ到達するための着眼点が構造的だ(と思う、わかんないけど)。

「文化資本」には、「家庭」において獲得された趣味やマナーと、「学校」において学習して獲得された知識、技能、感性の二種類がある。 家の書斎にあった万巻の書物を読破したとか、毎週家族で弦楽四重奏を楽しんだので絶対音感になってしまっとか、(中略)家のギャラリーでセザンヌや池大雅を見なれて育ったので「なんでも鑑定眼」が身についてしまった・・・・・・などというのは前者である。気がついたら「身についてしまっていた」という意味で、これは「身体化された文化資本」と呼ばれる。同P.18

では、後者の文化資本とは何か?それは、後天的な努力によって獲得した文化資本であり、学歴・資格・人脈などが該当する。これを「制度化された文化資本」とよぶ。

東京大学教養学部佐藤学先生によると、近年、東京大学の学生たちのあいだで「文化資本の偏在」という現象が表出しつつあるという。

それは、「家庭で自然に身についた文化資本(=身体化された文化資本)」と「学校で努力して身につけた文化資本(=制度化された文化資本)」で構築される文化的な壁である。

前者の学生は、幼少時から芸術・語学・別荘といった豊かな文化資本を享受してきた一方、後者は、「ひたすら塾通いで受験勉強だけしてきて成績以外にはさしたる取り柄がない」学生群である。

この二集団の間には歴然たる壁があり、コミュニケーションを阻害している。そして、何よりも懸念される現象は、これらの文化資本による階層化である。内田先生はこの流動性の低い文化資本による階層化が日本に現出しはじめたと考察している。

文化資本の話は日記で散見され、この内容は昨年1月21日の日記に記されており、最近の言説はより深化している。それは、「負け組」がみずから「負け組」を選択して、先の総選挙において「すすんで文化資本による階層化」を望んだ構造にあると愚生は解釈している。

最後に、次の引用部分の「成り上がり貴族(=制度化された文化資本で成り上がった人たち)」を「負け組」と置換すれば、負け組のなかでも階層化しつつあると考えられるのは気のせいであろうか?

「生まれつきの貴族」は「庶民」を見下したりしない(そもそも眼中にないんだから)。しかし、「成り上がり貴族」は「自分より下の人間」を探すことに熱中する。「成り上がることを切望しながら、それを達成できなかった人々」こそは、彼らの「恥ずべき自画像」だからである。それから目を背けたい当のものだからである。 だから、「成り上がり文化貴族」は必ずや勤勉な差別主義者となる。あらゆる領域で、あらゆるトピックについて、どうでもいいようなトリヴィアルな差違を発見し、どうでもいいようなニュアンスの違いを言い立てて、そこに「文化資本をそこそこ持ったもの」と「文化資本をそれほどは持たなかったもの」の「越えがたい境界線」を引きたがるようになる。同P.38

こうやってまた一つ愚生は叩きのめされ、自虐を斥力として明日の米櫃を探すのである。

追伸:
後半部分の人生相談形式の「街場の常識」も妙なる文の集まりだ。個人的には、結婚・離婚のくだりがお気に入り。内田先生の経験?を援用して、わが子に諭しているかのような雰囲気を感じとってしまった。