街場のアメリカ論

街場のアメリカ論街場の現代思想に続き、筆者は同じく内田樹先生。本書の起稿から脱稿までの心中をウェブサイトの日記で書き記されているので、そちらと併読すると舞台の裏側を垣間見るようで面白い。先生はアメリカ論を書くにあたって、「どうして日本はこんな国になってしまったのか?」という問いをたてられた。

そして、その問いを系譜学的にたどったとき、先生曰く、「(すごく乱暴な)日米関係論の起点的仮説」に至った。それは、日本が1850年代に「国民的な欲望の対象」を中国からアメリカへ無意識的にシフトしたことである。日本にとっての「他者」をそれまでの中国からアメリカに切り替えたことを、当の日本人も気づいていなかったというわけである。

私は本書の中でアメリカの政治、アメリカの文化、アメリカの社会構造を辛辣に批判するけれども、それは「こんなことを言ってもアメリカ人は歯牙にもかけないだろう」という「弱者ゆえの気楽さ」がどこかにあることで成立する種類の辛辣さである(中国や韓国の政治や社会を論じる場合なら、私はもっと慎重になるはずである)。その種の「気楽さ」は私だけでなく、日本人の語るアメリカ論のすべてに伏流している。『街場のアメリカ論』 P.26

機知に富んだ文体で綴られた内田先生のアメリカ論は、ファースト・フードから映画論、コミック、果ては肥満にまで及び、千里眼を持っているかのようである。以下、愚生の私見を厚顔無恥に晒してみる。

アメリカは建国以来変わらない国であり、暴論を吐けば、誕生した瞬間から成熟した国家(国民ではない)でなかろうか。その理由は、アメリカの建国過程で産み落とされた風土的奇習から考察してみたからだ。

風土的奇習とは、アメリカの「統治システム」と「宗教的背景」である。

アメリカの建国の父たちは、「アメリカが今よりよい国なる」ための制度を整備することより、「アメリカが今より悪い国にならない」ための制度を整備することに腐心したからです。だって、アメリカは理想の国をすでに達成した状態からスタートしたんですから。それ以後、その理想国家をどう「よく改善するか」ということは問題になりません(まだ改善する余地があるということになると、アメリカは理想国家ではなかったということになりますから)。同P.115

アメリカの統治システムは、「人間はしばしば誤った選択をするから、それがもたらす災禍を最小化する政治システム」だと定義している。このシステムについて矮小化すると、ここ数ヶ月の間で頻発した東証システムの問題や耐震強度偽装問題からも類推できる。ただし、類推できるからといって、日本もこのシステムを構築すべきだというのは短見だと思う。

またもう一方の「宗教的背景」についても日本との相違がある。

アメリカにおいて、キリスト教による束縛はたいへんに強いものです。例えば、ブッシュ政権のチェイニー副大統領はユダヤ人です。仮にジョージ・ブッシュが急死した場合、副大統領が大統領の代行を務めるわけですが、そのとき、チィイニーは『聖書』に手を置くことができるのかという問題があります。ユダヤ教の聖典は『旧約聖書』であって、『新約聖書』をユダヤ人は聖典として認めていません。(中略)これは建国に際して政治的なプロトコルを定めたときに、アメリカにはキリスト教徒しかいなかったから、キリスト教徒以外の宗教信徒を市民として遇する「伝統的に正しい方法」が存在しないということを示しています。同P.205

この引用について、わたくしは内田先生と少し異なる知見をもっている。アメリカには、「表出しない国教」があり、カトリックもプロテスタントもユダヤ教も包括されていると思う。この国教を前にしてアメリカ市民は、「イエス・キリスト」に”何か”を誓うのではなく、国家が内包化した「神」に誓っている。

なぜ「個人の信仰」と「国家の信仰」がねじれるように”両立”せざるを得ないかは、わたしにはわからない(ごめんなさい)。勝手に妄想するなら、自然的に発生した国家ではなく、文字どおり「建国」されたそのプロセスと密接しているのではないか。

だからチェイニー副大統領は目の前に『聖書』があったとしても、それが『旧約聖書』でも『新約聖書』であろうとも厭わず(個人的には認めなくても)、いわば『アメリカの国教の聖書』として手を置くのではないだろうかと想像している。

厭わず手を置ける行為こそが、大統領就任式における「多民族であっても分裂することなくアメリカは一つである」という意志表示だからだ(まぁ、建前論ですが)。

そして、(たとえ建前論であっても)統合に執着するアメリカの背景には、多民族国家ゆえに「共通の過去」を持っていない寂寥感があるまいか。過去がないゆえに、「共通の未来」を渇望するのではないか、と激しく本論から逸脱しつつも愚考する。

もう書評やら愚見やらさっぱり自分でもわからなくなってきたが、強引に元にもどす(ほんと、ここまで読んでもらっている方がいたらごめんさない)。

アメリカの「統治システム」と「宗教的背景」という風土的奇習とアメリカ文化について、先生はアレクシス・トクヴィルの言説を援用し、ご自身の専門知識をさりげなく披露しながら痛烈に批評していくわけである。

内田樹先生のアメリカ論を読了して愚生は、アメリカは建国以来変わっていないとあらためて仮定するなら、日本がアメリカを欲望するとき、風土的奇習を冷徹に凝視し、「日本らしさ」を省察しないと、舎利の上にハンバーガーのパンをのっけた奇妙な寿司にならない(今はそんな寿司もまわっているけど)だろうかと、愚考を重ねる。

追伸
個人的には、『あとがき』の名文に驚嘆した。先生が本書の読者に想定しているのは誰か?を一読したとき、推理小説の犯人を知るときのドキドキ感に似た感覚に襲われてしまった(笑)