ローマから日本が見える

「寛容」と「深慮遠謀」を同居させたいのなら、「剛腹」と「清濁併せのむ」力量を備えなければならないのだろう。

ローマから日本が見える恥ずかしながら、今年ようやくローマ人の物語を読破しようと目論んでいる。30半ばになってこれでは厚顔無恥すら吐けない:’-)

というわけで、事前準備としてマキャヴェリなんぞ読んだりしているがハテナマークが鳶のように頭上を飛び回っている。本書もその一つ。どうやら、ローマ史を駆けっこしてくれたらしい。おまけにタイトル通り、「日本を見て」くれている。

勝者はけっして最初から勝者であったのではない。無数の敗北や失敗を乗り越えてきたからこそ、彼らは勝ち残れたのであり、だからこそローマの歴史は混迷する現代日本に暮らす私たちにも無数の教訓やヒントを与えてくれると思うのです。『ローマから日本が見える』

愚生は、塩野七生さんが評するところの「歴史が苦手」ではない。むしろ得手ではないかと察している。ただし、致命的な欠陥をかかえている。それが、「カタカナの人名と地名が記憶に残らない」という点。いや、ホント、冗談ではなく=:-)

小学生の時からの悪癖で、苦手意識とかはないのに何度覚えようとしても「記憶に残らない」うえに、相関図が頭で描けない(特に地理は苦労した)。だから本書もずいぶん往来して無事読了。

もともとローマ史を読みたくなった動機は、「経営にトレースする視点を獲得したい」と考えたからだ。むろん統治・軍事・文化などにも興味を引かれるが、「どうマネジメントしたか」をまず学んでみたいのが第一の目的。

ハンニバルに会ったことのない私たちには推察するしかないのですが、おそらく彼には部下に「自分たちがいなければ」と思わせる"何か"があったのでしょう。部下の兵に親しく語りかけるわけでもなく、励ますわけでもないハンニバルであるのに、部下たちは彼のことを敬愛しつづけた。(中略)
古今東西、優れたリーダーと言われる人たちはみな、この"何か"を持った人たちでした。単に統率力があれば、それでリーダーになれるわけではない。人を率いる才能と同時に、人に慕われる才能を持っていなければ、周囲は彼をリーダーとしては認めない。P.163

司馬史観と言われるように、ローマ史にも塩野七生史観なるものがあるのかもしれない。コンテクストから推量するとそんな気がする。それでも引用箇所に最初ふれたとき、自然と首を立てに振っていた。

そして愚考する。リーダーが「寛容」と「深慮遠謀」を同居させたいのなら、「剛腹」と「清濁併せのむ」力量を備えなければならないのではと。「悪なる動機で謀を企てる」のは許されなくても、「善なる動機で謀る信念」は時に必要なのではないだろうか。そして、その善とは、「何に対して善なのか?」を常に問い続けるための平常心が、リーダーに必須ではなかろうか。

さらに愚考する。「何か」は、組織に属する人材にも伏流していると。その「何か」を常に探求し、「何か」を獲得するには何をすればいいのかを欲望し、そして、それをクライアントと一緒に昇華させていく。

愚行を重ねていると認識しているが、それでも「小手先の助言業務」ではなく、「変わらぬもの」と「変わるもの」を峻別し、「不易流行な助言業務」を提供したいがためにローマの先人に頭を垂れるのである。