赤ペン先生の価値

書いていない人が感じる「難しさ」と、書いている人が体験する「難しさ」は異質であると、(当たり前なのに)気づかされる。そして、”赤ペン先生”の対価を認めるのは後者でしかない。

仕事柄、ウェブサイトの更新として時事問題や専門的解釈などをとりあげたコンテンツをすすめる。それをうけて数社のクライアントが執筆されている。その際、クライアントとシンクセルの間で「やりとり」が発生する。その「やりとり」とは、”編集”であり、ポイントは3つ。

  1. 構成の再構築(検索エンジンとの親和性を高める)
  2. 資料の補完(数値データや文献を補う)
  3. 読み手の立場の疑問を想定したコンテクストづくり

考えてみれば自分が書いていない「原稿」を「編集」するなんて失礼な話だ。とはいえ、今のところ失礼ではなく、重宝がられている(と思っている)のが幸いである(と勝手にプラス思考している)。

知の編集工学 (朝日文庫)

シンクセルのバリューは、おそらく「編集」あたりに見いだせるのではないかと、最近手応えを感じつつある。つまり、クライアントの「知」を上記の3つのポイントにもとづいて、読者向けに「翻訳」する作業である。

そして、自戒をこめて何よりも忘れてはならないのは、「私の場合、原稿がないと編集できない」という事実だ。だからこそ、「書き手」のクライアントを全力で敬うのである。

敬うをビジネスライクに置換すると、『「誤訳」しないための修養を積むこと』が、シンクセルの価値創造につながるのではないかと愚考を重ねる。

もともと私は、情報の基本的な動向について三つの見方をもっている。それは「情報は生きている」ということ、「情報はひとりでいられない」ということ、そして「情報は途方にくれている」ということだ。[…..]これら三つの動向を一言でいえば、情報は関係しあおうとしているということになる。この関係線を見出すこと、それが編集である。つまり編集とは「関係の発見」をすることなのだ。

『知の編集工学 (朝日文庫)』 松岡 正剛 P.339