ライブドア:連日の報道と1995年な気分、オウム真理教

ライブドアに関連したニュースについて、テレビの報道を眺めていると、どこか違和感、ウン?、違う、デジャビュ…..、コレも却下、座りが悪いというか、何か「判断を超えた」ようなヒステリックな印象をうける。

テレビの報道に対する自分のすっとんきょうな反応は何だろうって訝って、ブクマを検索していると、ああそうか、切込隊長のエキセントリックなエントリーに「すり込まれていた」んだなぁって、納得した。

切込隊長BLOG(ブログ) 〜俺様キングダム 2005年3月5日付エントリー「ライブドア騒動と、オウム真理教事件が構造的に酷似している件について」

オウム真理教は信教と科学という軸で多くの若い優秀な人材を集め、それに明るいが既存の社会にはなかなか受け入れられがたい新秩序をぶち上げることで、オウム真理教の何たるかを知らない多くの国民に対してその先進性をアピールすることを戦術の柱とした。途中から、教祖の選挙出馬や、組織犯罪に手を染めるといった具体的かつ直接的な行動へとシフトしていった。
一方、ライブドアの場合は前近代的な古典資本主義を大義名分とし、資金の調達とその行使によって既存の秩序を塗り替えていこうという行動原理を取る。もちろん、市場を知る者にとっては暴走としか評価の仕様のないものであったとしても、失うもののない国民や、社会的に閉塞感に苛まれ未来を描けない若者に対して熱狂的(だが一部の)支持を集めうる思想を展開しているという点で、オウム真理教の初期と酷似している。

"本稿はライブドアが犯罪性のある集団であるという意図ではなく、メディアでの取り上げられ方や組織の構造が類似していることを示唆するもので、誤解のないようにお願いしたいと思います"と断り書きしたこのエントリーは、隊長の炯眼を称える証左になるのかもしれない(ご当人はどうでもいいのだろうけど)。

「ナンバー2」「側近」「不可解な死」「キーマン」…..,1995年でも電波に乗った数々の単語が耳にはいってくる。これらはどれも「普通名詞」なのに、ライブドア・ショックに付帯すると、「固有名詞」と置換されて聞こえてくるから不思議である。なぜ、自分の耳にはそう聞こえるのか?

おそらく、"ライブドアとオウム真理教の構造的近似値"という先入観のスイッチをいれた瞬間、自分の思考停止がはじまり、「幾多の報道は構造的近似値だ」と自動的に解釈しているのだろう。

昨日の報道ステーションで、ライブドアの忘年会(昨年末)を撮影したビデオ映像が流されていた。

ブラウン管には、ニッカポッカをはいてノリノリ(主観的には体育会系かな)でみんなに呼びかけている堀江氏がいる。また、「大きなのっぽの古時計」の歌詞を「時価総額世界一、球団なんたら(正確に覚えていないので…..スミマセン)〜」に替え、過去の業績を称え、未来を謳っている「歌」が流れている。

さらに、この替え歌を歌ったアーティスト!?が「社員の誰かが舞台で歌えば、30万・50万の札束がと舞台に飛ぶ(これも正確でないので…..スミマセン)」と、インタビューで答えている。

それを眺めている自分はというと、眼前の映像は堀江氏やその社員たちであっても、頭の中では、「ポア」を説く教祖がいて、「ショウコウ、ショウコウ、アサハラショウコウ」がこだまする。

構造的近似値になるよう自動変換する自分がコワイ。

マスメディアに携わる高度知的集団の方々は、

  • 何が違法行為であり、何が合法なのか
  • 判明している事実と、背景や将来の予測を混淆しない
  • 企業の経営姿勢と倫理を切り分けて

時には論理的に、時には情緒にあふれ、非常に明晰な解説をしていると、自分は盲信している。決して、論理と情緒をちゃんこ鍋にせず、黒ありきの前提で結論を導きだしていない。

それにもかかわず、1995年の報道にリンクさせようとするところに己の短見が露呈する。いかんいかんと首をブンブンふればふるほど、固定していく。

一方、1995年になかったブログでは、識者の方々が

  • 専門的知識を駆使して違法行為を説明している
  • 判明している事実に見解を述べている
  • 倫理に対して冷静に向かい合っている

自分が知らないことを知る機会を与えてくれる言説について、わたしは盲信せずに、ひとつひとつ手順を踏んで理解に努める。一つのブログに一つの論点があり、ブログを読む数だけ論点が己のなかで増えていく。その論点を交通整理するのが、「己で考える」工程ではないかと愚考する。

一方では盲信し、他方では精査する。

この不均衡がなぜ自分に生じたかを省察するのが、両者に対するささやかな慎みである。