すばらしき玄人たち

遅くまでありがとうございました。というか、遅すぎますよね。ホント、みなさんスミマセン。やっぱり第三者の私が冷徹に打ち切らないとダメですね。あまりに楽しすぎるから甘えてしまう。このOn/Offの仕切りをできるかが今の私の課題。たくさん書きたいことがあるけどまずはこのリンクから。

夜空に、自己批評の風が染み渡る。

みなさんの向こうには来院者がいる。しかも「まだ見ぬ来院者」がいる。その人々はみなさんの「存在」を知らない。どうすれば「知る」ことができるのだろうか?それが私の関心事です。「まだ見ぬ来院者」と「みなさん」をつなぐ架け橋になりたいと切に願います。そのとき、みなさんはどこを向いているでしょうか?"内"ではなく「まだ見ぬ来院者」に向かうと信じています。そのための「ぶつかり合い」であると信じています。

ただしチョット待ってください。今日を共にできなかった人たちがいることを忘れないでください。今日の空間に「いる/いた」ではありません。別にここにいてようがいてまいが、それ自体には差異はないと思います。「いる/いない」よりも「この場にいた」ことによって得られた「伝えたい言葉と気持ち」を共有できたことに安心し危惧するのです。

共有したことによって、たしかに「メタ」は強固になりました。しかし、共有できなかった人たちは「メタ」が強固になりません。それを「いる/いない」で区別してしまうのは短見だと思います。なぜ共有できたのかを「奢り」なく伝える責務が生じているのではないでしょうか?

もちろんあの場にいないと「わからない空気」はあります。それを承知で「言葉にならない言葉」を紡ぎ出そうと営むところに「何か」があるのだと思いたいのです。

すばらしき玄人たち。情熱にあふれた玄人たち。思いをぶつけることができた玄人たち。

自分の言動に悔しくて涙することがあっても、涙が許されるのは「内」だけです。なによりその涙の根源と涙を克服するための努力を「まだ見ぬ来院者」に伝えてほしいと思います。それらが「まだ見ぬ来院者」と「今見ている来院者」に届けば来院者はHappyになれるから。

すばらしき玄人たちの向こう側には「地域」があります。そこに住む人たちは、噛みたくて、おいしい物を食べたくて、痛くなくなるようになりたくて、何のために健康になるのかを探してやってきたいのです。でもみなさんの「存在」を知らないのです。みなさんが苦悩している姿を知らないのです。同時に、存在を知らない人々がもがき苦しんでいる姿もみなさんはわからないのではないでしょうか。

その人たちに出会うにはどうすればよいのか?

今日の涙と明日の対話は、すばらしき出会いのためにあると切に切に願っています。答えなき答えを模索することに耐え、みなさんを羨み酔っぱらったまま了。

:::追記:::
あっとうっかりしていた、コメント不要ですよ(笑)