[Review]: はじめての構造主義

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

「わかりやすい」「易しい入門書」「構造主義が明快」といった感想を目にするが、なにぶん私の場合そこまでわかったとはいえないので、わかりやすいも易しいもない。私には樹海の地図を手に入れたような印象をもった。今まで構造主義とは何かすらわからずに闇雲に乱読してきた。頭の中でまったく体系化されていない知識を「分ける」ための手がかりを与えてくれた。過去の書物が己のなかでどこに位置するのかを再確認できた。つまり点在していた書物のいくつかが線となって面になりだしてきた。ここからさらに面を広げていけるか、どう広げるか、樹海の中を迷ったとしても何とか歩いていける地図—–それが私にとっての「はじめての構造主義」である。

西欧文明中心の近代に終わりを告げ、現代思想に新しい地平を拓いた構造主義。レヴィ=ストロースの親族・神話研究の、鮮やかな方法と発想の背景に見えてくる、ソシュール言語学やモースの贈与論。そして遠近法にまでさかのぼる、数学史の水脈に隠された<構造>のルーツ。モダニズムからポスト構造主義への知の戦線に、軽快な文章で歯切れよく迫る。

『はじめての構造主義 (講談社現代新書)』 橋爪 大三郎

1955年に出版された一冊の本がフランスの読書界を驚愕させた。書名は『悲しき熱帯』、著者はレヴィ=ストロース。見知らぬ異国を伝える紀行文ような文章は不思議な魅力にあふれていた。しかし、悲しき熱帯がベストセラーになったのは内容だけではない。それ以上に彼のメッセージが読書界に警鐘をならしたのである。それは要約するとこうだ。

「未開人だ野蛮人だ、文明に取り残されて気の毒だと、偏見でものを見るのはよそうではないか。彼らは、繊細で知的な文化を呼吸する。誇り高い人々だ。われわれのやり方とちょっと違うかもしれないが、そして、物質生活の面では簡素かもしれないが、なかなか”理性”的な思考をする人びとなのだよ。」

ユダヤ人で無名の人類学者、遅れてきた青年がヨーロッパを中心とした時代の終わり、帝国主義と植民地支配の崩壊を宣告した瞬間であった。『悲しき熱帯』から3年後、彼は『構造人類学』という論文を発表する。人類学の実証に裏付けされた達意の文章は第三世界の人びとをどう考えたらよいのかを示した。このレヴィ=ストロースの立場をいつしか周囲は「構造主義」と呼ぶようになり、彼を構造主義の生みの親と認識するようになる。もちろん彼が構造主義を突然思いついたわけでもないし、降ってわいてきたものでない。先行者が存在し、彼の人類学の養分になった人もいる(たえとばフェルディナン・ド・ソシュール)。

では構造主義の「構造」とは一体何なのだろうか?この質問が当然抱かれるのだけれども、なかなか答えがみつからない。解説書を読んでも要領を得ないし、はては「よくわからないところがありがたい」という人までいる。

私の思うに、「構造」をどこかにある実体みたいに考えてしまうから、わかるものもわからなくなってしまうんじゃないか。名前にごまかされてはいけない。「構造」といっても、骨組みやなんかでなく、もっと抽象的なもののことである。そして、たぶん、現代数学にいう<構造>の概念と、いちばん似ているようだ。(数学嫌いのひとも、びっくりしないこと。数式など出さずに、ちゃんと説明します)同P.28

本書は抽象的なものである<構造>の概念を第1ステップ、第2ステップにわけて解きほぐしていく。まず第1ステップは構造主義の生みの親、レヴィ=ストロースの歩みをたどり、彼がどのように構造主義とよばれる考想に到達したかを追っていく。第2ステップは構造主義に至る思想上の系譜をたどってみる。なかでも本書が異彩を放っているのはこの第2ステップではだろうか。思想上の系譜をたどった行き先は「遠近法」であり、ここから構造主義のルーツとして数学を交えた解説を試みている。

私的な感想は構造主義に多大な影響を与えたとされるソシュールの言語学のあたりがとても興味深かった。言語学というと学問の臭いがするけれども、単純に日常生活の考察に置換すればおもしろい。特に、言語の「恣意性」はビジネスシーンにしばし登場する合意形成に必要な要素を多分に含んでいると思う。言語の「恣意性」とは「言葉が指すのは世界のなかにある実物ではなく、その言語が世界から勝手に切り取ったもの」である。常々私は「言葉をしっかり確かめよう」と伝える。これはかなり自戒を含む言い方であって、私が使う単語がたとえ相手と同じ「単語」であっても、「世界から切り取る」方法や意味が違うかも知れない。もし「切り取った」差異が生じているなら、その差異を相互認識しないと理解に齟齬をきたしてしまう。

『突入せよ!「あさま山荘」事件』に「電線を切ったか?」という問いかけに対して、「切りました」と答えるシーンがある。そして、いざ鉄球をぶつける当日、電線が切られていないのを目の当たりにして騒然となる。なぜこんなミスがおこったのか?

質問者は「(物理的に)切ったか」と問いかけ、回答者は「(送電を)切った」と答えた。「切った」のなかにこれだけの差異が発生していたのである。単に「ばかか」というのは簡単だ。そんなことがありえないだろうと驚くのもたやすい。問題は「切った」がなぜかくも違う「切り取られ方」をしてしまったかであり、それを解明しようとすると、このワンシーンだけに目を奪われてはいけないと思う。そこには本書がいう<構造>の概念が、県警と本庁の間に存在しているのではないかと思案した。

こうやって考えると<構造>の概念は私に豊かな知見を与えてくれる「思考の道具」である。その思考の道具を手にするための地図が本書である。