[Review]: 「私」のための現代思想

「私」のための現代思想 (光文社新書)

旭屋書店をそぞろ歩きしていたら光文社にいきなり横面を叩かれた。—–自殺には、「正しい自殺」と「正しくない自殺」がある 「私」の問題を徹底的に考える—–はぁ!?「正しい自殺/正しくない自殺」だと。手にとり”はじめに”と”目次”を読む。著者の思うツボにはまったまま「出会った」一冊。まったく書評なんてできない。徹底的に「私」のための現代思想を駆使して「私」を考える。ハイデガー・フーコー・ウィトゲンシュタイン・レヴィナス・ニーチェといった錚々たる顔ぶれを登場させ、彼らを「思考の道具」として考察していく。「ひとつひとつの単語の意味は知っていてもそれらが集合体となった文章はわけわからん」という貴重な体験をさせてもらった一冊。

私たちが今直面している「問題」は何でしょうか。もちろん、私とあなたの「問題」は異なっているはずです。この本は、それぞれの「私」が直面している問題を、自分で解きほぐす手助けとなることを目指しています。直面している問題を解きほぐして解決するためには、道具が必要です。本書では、その道具として「思考」を用います。これにはいろいろなものがありますが、本書はその中から特に「現代思想」に分類される考え方や思考の枠組みを使うことにします。

『「私」のための現代思想』

主題のようで実は手段でしかない本書の帯の文言、「正しい自殺/正しくない自殺」に脊髄反射する。「正しい/正しく」ないは二分法であり、その設定自体に同意できない。私にとって自殺は「物の順序を間違えない」だけであり、その限りにおいて絶対ない。ところが、これも二分法のひとつである。「親がいる/いない」だ。二分法から離れて批評を加えようとしても、己が設定した構図が二項対立していることはしばしある。では無限後退になるじゃないかという見解がある。しかし、それは浅慮というものだ。—–私のなかでこんな感じの対話をしていくときに知見を与えてくれる道具が”「私」のための現代思想”である。その対話している私とは何か?

<私>とは、「対象化された自己」の論理的な側面であり、《私》は「生そのもの」としての「私の存在」ということです。

『「私」のための現代思想 (光文社新書)』 高田 明典 P.125

勝手に切り取っただけなので意味はない。ここで言いたいのは本書が、「私と<私>と《私》」を使い分けている点である。この3つは違うと著者は説明している。「私」を俎上に載せるとはどういうことかを端的に示していると思う。ふつう「私」をこんな3つに分けるだろうか。この違いを解明しようと過去の人たちは「私」と対峙してきた。そもそもこの「私」を制御する主体は何なのか?右余談。このあたり脳科学の研究とリンクとさせるとワクワクする。茂木先生ははるか昔捨象された「脳の中のホムンクルス」を取り戻して再構築せよと述べている。

「私」を冠して

  • 「私」を縛るものは何なのか
  • 「私」はどこで、どのように生きているのか
  • 「私」とは何か

について、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」を、レヴィナスは「他者」を、ニーチェは「ニヒリズム」を、ハイデガーは「世界劇場」を、フーコーは「生-権力」を、といった概念を誕生させた。

私なりに読解してみると、これらの先人の現代思想は点在しているのではない。歴史の中で互いの「概念」が肯定・否定されきた。そしてそのなかからより高次の概念を創出させる叡智に貢献してきたのだと思う。そして否定されてきた、もしくは使い古された概念は「すでに必要のない」わけでなく、まるで太古の地層のように私の眼前にあるのだと思う。

私たち人間は「自由であること」を求める存在です。それゆえに、自由が損なわれるとき、もしくは束縛や抑圧を感じているとき、生きることを辛いと感じるようになります。このとき抑圧とは、決して「社会的な抑圧」のみを指しているわけではありません。「自分の身体」による抑圧や、「自分の思考」による抑圧、「言語制度」による抑圧なども含んだ概念をあらわしています。「教養」は、英語で<Liberal Arts>と言います。これは「自由市民の知識や技術」という意味で用いられてきた物ですが、この含意は「自由になるための技術」であると考えることができます。[…]そして哲学や現代思想は、その柱の一つです。「人が自由になる」ということを、最も詳細に吟味、検討してきた分野は、間違いなく哲学です。したがって哲学を放棄することは、思考を放棄することと同義です。そしてそれは、自由になることを放棄するに等しい愚かな行為であると言えます。私たちに与えられた武器は、思考であり言語であり論理です。それ以外の武器を、私たちはもっていません。この貧弱な武器で、何とか闘っていくほかない存在です。

『「私」のための現代思想 (光文社新書)』 高田 明典 P.30

字面どおりまったくユーモアも内田樹先生のように「身近な話題」もない。ただひたすら見たことのある単語と見たことのない単語が広がっていく。私が著者のこの言説に反論しようとするときに必要な武器もまた「思考であり言語であり論理」であると認める。他方、「自殺」は武器をもたずして退場する無言の抵抗であり、そこには「思考であり言語であり論理」と対置した「感情」だと思う。「自由になるための」道具である「思考・言語・論理」と「自殺」の背後にひそむ「感情」という二分法で浅はかに考える愚生に対してアイロニカルな批評を加えられない己にもどかしさを感じ、それを説明するために必要な道具もまた「現代思想」であるのかもしれない。