[Review]: 上司は思いつきでものを言う

上司は思いつきでものを言う (集英社新書)

橋本治氏の集英社新書三部作第二弾。他の2冊、「わからない」という方法乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれないも近々レビュー予定。いずれも秀逸だ。私は氏の浩瀚な著書のなかで10冊程度しか読んでない。羞恥をかきすて掻い撫でで述べると、「平明なことばで文章が綴られているのにこれほど難解な意味になるのはなぜだろう」という疑問が頭から離れない。人によっては諄いと言い、支離滅裂だと指摘する。私はそれらへ右へならえできるほど達見をもっていない。ただただ氏の”言いたいこと”を五臓六腑にしみわたらせたいだけだ。氏は韜晦趣味でもあるのだろうか、それぞれの著書の背後には膨大な叡智が宿っているような気がしてならない。この人は一体何を知っているのだろう、何を欲望しているのだろう、何を背負っているのだろう—–これらの疑問が私の好奇心を掻き立て、何度も何度も読み返させる。

日本の会議というのは、議論をするところではなくて、承認をするところなんです。だから会議の〆の言葉は、「そういうことでよろしく」になるのです。そこであなたが、「なにを、”よろしく”なんだ?なんにも決まっていないじゃないか」と思ったとしても、「じゃ、そういうことで」が出たら、そこで会議は終わりなんです。「じゃ、そういうことで」は、「前提の最終確認」で、「ここから会議はやっと始まる」というところで、日本の会議は終わってしまいます。そうなっても、誰も訝しい顔をしません。「それでもかまわない」ということになっているのは、日本の組織が、「明白な事実を明確にしない」という、ややこしい曖昧模糊をその前提にしてしまいっているからです。

『上司は思いつきでものを言う (集英社新書)』 橋本 治 P.59

はじめに本書の構図を紹介すると、氏はサラリーマンを一度も経験せずに「上司は思いつきでものを言う」を書き下ろした。もちろん「上司は思いつきでものを言う」は話のとば口でしかあらず、本意は一体それはどういうことかを理解するところにある。とはいえ、「サラリーマン経験ゼロ」の人がなぜそんなことができるのか、そんな人の言い分なんて聞く耳もたないなどと先入観を持ってしまうと、本書の魅力は半減してしまうだろう。なんといっても「サラリーマン経験ゼロ」の筆者が「現場の声を聞く能力」を考察する”アイロニー”が秀逸だからだ。

上司が思いつきでものを言う場所のひとつは「会議」である。しかもこの会議にはひとつの特徴がある。「会議全体の議論の前提」が共有されていないことである。あるひとりの部下が「このままではあぶない」と胸に秘めて会議に出席したとしよう。ところが”秘めている”かぎり、「このままではあぶない」という前提は仮想された「仮の前提」であって、「会議の前提」になっていない。部下は「この前提は当然のものとして通るはずだから」と考えて会議をはじめると「モヤモヤ」がたちこめる。

「会議」を「議論」と考え、「前提から始まって結論に至る」と思うと実はそうではない。「仮の前提から始まって、それを正式の前提として承認することによって終わる」のが会議なのである。だから”何も決まっていない”ことを無自覚的に自覚している。

そして、正式の前提として承認したあとの「結論」はいうと、「別のところ」で決まる。結論が別のところで決まるとはどういうことか。現場から上へ向かうプロセスで決まるのではなく、「現場とはかけ離れたところ」で決まってしまう。そして、その結論が「上から下」へ還流する。現場の問題を解決するための会議は「問題がある」という仮の前提だけが「現場」で承認され、解決するための結論は「現場でない」場所で決定され、「現場」へもどってくる。

ここに「上司が思いつきでものを言う」心理が伏流している。私見を一言集約すると「過去の成功体験への依存」である。

現場に問題があるというのは今までのやり方に齟齬をきたしてきているのである。そして現場に従事している部下はそれを目の当たりにしている。だから「このままでは危ない」という意識をもつ。その意識は「誰もが持っている当たり前のこと」という「公式の前提」に変換される。「仮の前提」から「公式の前提」へ一人変換されてしまったあと、会議に出席した部下が有意な解決方法を提示すると上司はどう反応するか。

この反応するくだり、本書を読むと圧倒される。「おお、まさにそんな経験したことあるぞ」と膝を打つかもしれない。部下は過去の成功体験を知らないゆえに大胆な解決方法を導き出す。それは過去の成功体験を知っている上司からすると「否定」に映る。この「否定された」と感じる人の深層心理は複雑怪奇だ。上司は自分が会社で生存するにはどうすればよいのかという戦略を無意識的・意識的問わず想起する。己の経験に置換すれば納得できる。今の私は複雑怪奇だと自分を慰撫するけどサラリーマンのころの私は「はぁ〜?」と理解できず自暴自棄になった。

ただ私の拙劣なレビューによって誤解を招くのは本意ではないので弁解すると、「上司が悪い」と言っているのではない。「上司とはそういうものだ」と指摘しているのであって、放言すれば「上司/部下」というのはネタにしかすぎない。むしろ「なぜそうなるのか」を儒教の伝来まで遡って解説している。なんと儒教の伝来である。

じゃぁ、一体どうすればよいのか。—–そんなこと自分で考えろよと氏なら言いそうなのに丁寧に持論を展開している。このあたりの真意は私のような無知蒙昧の輩には忖度しようもない。ただただ読みふけた。そして、もし上司が思いつきでものを言ったなら部下はどう対処すればよいか—–これについての氏のアドバイスを読み驚愕した。

本書の主張を咀嚼して愚考しみると、一見すると上司も部下もあたりまえのことを演じていない。ではなぜあたりまえがあたりまえでないのか。それには橋本治氏が経験できていない「会社内感情」がある。それを氏は想像力と類推能力で補完している。想像力で補完するために必要だったのが儒教や民主主義といった「会社外言語」である。これらの言語は上司が思いつきでものを言う現場には見あたらない。現場とは離れたことばである。そのことばでもってして語り、卓越した想像力と類推能力で補完したところに作家は沈思黙考してものを言うのである。