[Review]: 子どもは判ってくれない

子どもは判ってくれない (文春文庫)

安い。ただし私にとっての安価の理由は内容ではない。内田樹先生の「たいへんに長いまえがき」と橋本治氏の「解説」を読める対価が629円+税とは安い。「たいへんに長いまえがき」は難解のようでなんとなく腑に落ちる。難を避け易につく言葉ではなくとも理路が平明に記されている。内田樹先生の物語は首尾一貫して「話は簡単」ではないに着地する。話は簡単でないのは「現実が複雑」だからだ。現実は複雑なのだから話は簡単でないという明快な理路を前提にしている。その前提から出発した思考の仕方を開陳している。一方、橋本治氏の「解説」は易しい単語で書かれた難解な文章である。正直、愚鈍な私にはまったくわからなかった。文庫本の解説でこのような事態に遭遇するのはそうあるまい。まったくわからなかったということだけがわかっただけでもたいへんありがたい。

テクストの「意味」は、文言それ自体ではなく、そのテクストがどのような文脈のうちに置かれるかによって決定される。どの文言をどのようにコピーするかということにおいて、すでに人々はそのオリジナリティを発揮し始める。だから、仮にある人が私の書いたものを丸写しして本を出しても、その引用箇所の意味は、私の本の中に置かれていたときとまったく別のものとなっているだろう。

『子どもは判ってくれない (文春文庫)』 内田 樹 P.85-86

この引用文は文字どおりコピーした時点で「意味」は変わった。愚考するに冒頭記述した思考の仕方の示唆がここに含まれている。というのも、拙い読解力をもとに臆断すると、引用文の「テクスト」を「思考の結果」に、「文脈」を「思考の仕方」へと置換できないだろうか。置換してみれば、内田樹先生の手による達意の文章はいつも同じ「思考の結果」を導き出しているように愚生には映る。そしてその思考の結果と読み手の私の「思考の結果」にはズレがあるように感知する。それが私には新鮮に映り魅了され何冊もの著書を手にとらせる。しかし、上記の引用文を推論すればこれは錯覚だと気づく。「意味」を自己変換しているにすぎない。なぜなら「思考の結果」のオリジナリティを発揮しているのは、どのように「思考の仕方」がなされているかに担保されるからだ。

たとえば、私は長い引用文を用いるとき、[…]という記号を使用する。これは[…]の中には引用元にあったテクストを私の判断によって省略したという意思表示だ。省略された「文脈」のうちに引用文の「意味」を置いたことになる。その時点でオリジナリティの「意味」と私が引用した時点での「意味」は異なる。

[…]はビジネスシーンでも遭遇する。私が企業の会議に出席したとする。そしてA氏とB氏が口角泡を飛ばしている内容に耳を傾けると、まれに「思考の結果」のみで議論しているときがある。この省略が[…]にあたる。つまり、どういう理路をたどって結果がでてきたのかが省略されているのだ。思考の仕方が俎上にのってこないので、A氏とB氏は何が原因でこのような結論に至ったのかを検討できず、よって自分の理路にフィードバックできない。フィードバックできないから結果は変わらない循環に陥る。

もちろんこの私見は魯鈍な愚生による戯言にすぎない。頭のいい人は滑舌よく「○○だから××という結論だ」と主張するだろう。そのような思考の結果はクリアカットで[…]がない。切れ味するどい論法に周囲は首を縦にふるのかもしれない。

しかし万一、私の戯れ言が的を思い切りはずしても射ているのなら、[…]をなんとか俎上に載せる努力ができないだろうかとあがく。思えば、私のビジネスにおける対話やスピーチする内容は、これに尽きる。[…]をどれだけ探求できるか。つまり眼前の人の「思考の結果」はどのような「思考の仕方」によって私に発話されたのだろうか?—–これを徹頭徹尾念頭におき話すようで聴くに五感を集中させる。

ここまで類推してきて橋本治氏の解説に立ち返ったとき呆然とした。橋本治氏は「思考の仕方」どころか「思考の出発」を説いているような気がしたからだ。そもそも出発点にたつとはどういうことなのか私には皆目見当がつかない。だから思考の出発を意識的に逃避していた。

ところが「解説」は私に問いかける。「おいおい、お前さんよ。さっきから思考の仕方やら思考の結果やら愚にもつかぬことをうだうだノーガキっているけどよ、そもそも仕方や結果を生み出す芽はどこにあるんだい?出発をないがしろにしてないか。それにもっとつっこめば、”出発点にたった己”はどうやって仕方と結果を作用させて出発点にたったんだい?そのまた己は…..無限後退だろ」

そして最初にもどる。内田樹先生の「思考の仕方」が読みたくて629円+税を払ったのに、私はついぞ見たことがない「解説」(7頁に満たない)に出会い内容にぶったまげた。私のわずかな読書量をもってしてついぞ見たことがないと表現するのはオーバージェスチャーかつ早計であるにしても、深い洞察力から発する批評と傑出した論考に対してそれ相応の解説を「贈与」する異能を堪能した。

内田さんのこの本に書いてあることは、私の分かる範囲では、みんな正しい。「正しい」という言葉を使うと議論になりそうだから、「みんな腑に落ちる」と言う。しかし、この本を書く人が「戦場に生きる人」だということだけは、この本にはっきりと書かれてはいない。内田さんは、「戦場に生きる」を引き受けて、そして「戦うことが嫌いな人」なのである。そういうことを頭に置いておけば、この本を読んで納得したり反発したりする人もまた「戦場に生きざるをえない人」だということが分かるだろうと思って私は余分なことを書いたのである。同 「解説」より抜粋

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