[Review]: スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化

スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化 (平凡社ライブラリー)

食物・環境・身体などの視点からスロー(=遅さ)を。LOHASのような商いの香はしない。筆者の声が透きとおればとおるほど、私には”リアル”が目に浮かぶ。あっ私じゃないか。私はキャピタリズムの時間軸からズレようと歩き出している。うなづける。

他方、私がバーターした「価値」は? それがつきささる。「時間があってお金がない私」から「時間があってお金もある私」に変換できるか。「スロー」を維持したまま。愚かな問い。わかっている。暗愚の私は変換する気力と努力をもちあわせていない。「欲」を捨象する意思、それがなければ「スロー」を選択できない。もし「欲」を持ち続けたまま「時間があってお金もある」人になりたいなら「スロー」はセカンドライフ。というかそれはスロー? LOHAS? わからない。”時間をもつ金持ち”じゃないし。そんな”リアル”が私の全身を駆け抜ける。

それにしても「時間がかかる」ことはいつから問題となったのだろう。文明批評家で環境運動家のヴォルフガング・ザックスによれば、「時間と空間は克服されるべき障害」とするところに近代という時代の特質がある。[…]そういう時代の中で人々は常に時代的、空間的な制約に対して闘い続けることを強いられる。障害を乗り越えよ。距離を縮めよ。無駄を省け。ザックスが言うように、「加速」こそが時代の命令だ。速さは何のため?多分それは英語のタイム・セーヴィング、つまり時間を省くことで、その省いた分の時間をもっと有意義なことのためにとてとくため。しかし、だ。ハイテクが省いてくれたはずの時間は一体どこへ消えてしまったのか。

『スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化 (平凡社ライブラリー)』 辻 信一 P.94

どこにも消えていない。目の前にある。しっかりと消費。「時間がかかる」ことが問題なのではない。時計のない時代から「時間がかかる」はあった(と思う)。ただ気づかなかっただけだろう。

「時間がかからない」が問題。「時間がかからない」ように心がける私がいるから「時間がかかる」ことに敏感になる。そもそも「時間がかからない」を捨てれば、「時間がかかる」ことに気づかない。だって「私だったらこれぐらいでできるのに」があるから「時間がかかる」という「基準」が生じる。

たとえば食物。地産地消を心がける。でも近くのイオンにはズラリと並んでいない。わずか。で、高い。近くの土地で収穫できる農作物が近くのスーパーに並ばない。なぜだろう。不思議、じゃない。物流や商流の仕組みに納得。私の近所はイオンだけ。他の大手スーパーはおろか商店街すらない。これが現実。じゃあ、いちばん近い商店街の八百屋まで足をのばせば買えるからと、往復小一時間の道のりを歩く。今はいいけどこんなことあと何十年も続けられるのだろうかとつぶやく。だったら自分の食い扶持ぐらい自給するか。っとと、菜園らしい数坪の庭なんてない。生活できない現実に対していかに「折り合い」をつけるか。

あふれる叡智を書き続ける弾さんが述べていた。「強欲2.0」。読んでほしい。かつての私、年収4-500万で24時間365日をあっという間にすごしていた時なら読んでも愕然としなかった。けだし「なぜ愕然とするのか」の気づき方を知らなかった。

一言で言えば、「貧すれば鈍する」ということなのだけど、一口に年収300万円といっても、「年収150万がせいぜいなのに、がんばって300万を維持している」のも年収300万なら、「年収3000万もカタいのに、300万円稼いだところで仕事を切り上げる」人もいる。[…]それで、どんな人な金持ちになるかといえば、実は後者なのだ。[…]面白いのは、「年収3000万円の能力をきっちり使って年収3000万円」の人より、「年収1000万円ぐらいで切り上げる」人の方が、お金に余裕のある生活を送っているということ。

すっとこどっこいの私は前者、心意気は後者。いま、時間軸をずらそうとしている。だからお客さまから「いそがしいでしょ?」と問いかけられると戸惑う。胸襟を開くまでもなくアイドリング。なぜ忙しくないのか。茂木先生が示唆している(参照)。

でも、みんなでこんなにお互いを忙しくしているこの国は、ちょっとおかしくないか。一ヶ月カナダに行ってカヌーを漕ぐ、ということがどうしてできないんだろう。

私ができない理由は単純、お金がない。茂木先生は違うと察する。どうしてできないか。「他者から必要とされている」から。そして、弾さん曰く、自分が市場を独占しないことで、むしろ自分以外の人の力にアクセスしやすくなるということが茂木先生以外では見あたらないからだろう。他者から必要とされ、かつ代替財がないほど忙しくなる。これが真に忙しい人だと推し量る。私はそんなシロモノじゃない。私が模索しているのは、「スローなブルー・オーシャン戦略」

時間軸をずらしてスローになるにつれ、「体感」できる事象が増えてきた。今まで「気づかなかった」ことに気づいた。「気づいていなかった」のではなく、「忘れていた」だけ(もある)。

ただし大切なこと。銭。スローを選択した私が「銭」にどう折り合いをつけるか。だからコストパフォーマンスを重視したビジネスマインテッドなライフ・スタイル。アイロニー。パブリックでビジネスマインテッドではなくプライベートでビジネスマインテッド。

「スロー」はうなづける。でも「スロー・イズ・ビューティフル」は幻影。美しくない。「スロー」に修飾はいらない。すばらしいわけでもない。私はスローという”オプション”を選択した。スローに含まれる「エコロジカル」や「サステナブル」はヒトの強欲でしかない(と思う)。ファーストフードが嫌だからスローフード。何かおかしくないだろうか。もし、マジョリティーがスローフードに変わったら。スローフードが嫌だから私はファーストフードと愚考。同じ図式。不等式が入れ替わるだけ。ファーストフードの有無に左右されず。いまいる土地で採れるものをそのまま消費したい気持ち。ふっとわき起こった。だから地産地消。(不)等式の左辺にファーストフードは代入されない。

無知蒙昧をおそれず面の皮をあつくして話を拡散させて時間軸を広げよう。地球温暖化。あまり好きじゃないことば。科学の世界の論を知らない。音声の知識と私の勘。1世紀程度の温度を比較してほんとうに「温暖化」なのだろうか。私たちの人影が残っている程度の時間軸で判断する恐怖。ヒトが生存する、もしくはしたいという前提で論じられる「環境」。すこし首をかしげる。地球は残っているだろう。ほんの数種類の生物しか存在しなくても。

「時間がかからない」を捨てられるか。ヒトがサルからバイバイしたときから現代までは必然だったのではないかと私は思う。根拠なんてない。ただそう思った。言葉と道具と数式を手にしたヒトがめざすもの。それは、「いかに時間がかからずに楽できるか」という欲だ。欲を捨てられるのか。欲は「スピード」。「スピード」があるから「スロー」、しっくりこない。「スピード」と「スロー」にどう折り合いをつけるか。折り合いの付け方なんて教えてくれない。でも、せめて「折り合い」というニュアンスをかぎ取りたかった。もしそのニュアンスが含まれていたのなら、私はまだ「スロー」のほんとうを体験していないのだろう。

“何に”に対して「スロー」になるのか?

「誰も花を見ようとしない。花は小さいし、見るっていうことには時間がかかるから。そう、友だちをつくるのに時間がかかるように」—–ジョージア・オキーフ