貧乏は正しい

貧乏は正しい! (小学館文庫)

“外”を知る前に、「外があるという現実」を認める作業が先にたつと思う。「認める」があって「知る」がくる。が、ひょっとすると私は”外”を「認めて」も”外”を「知る」ことが永遠にできないのかもしれない—–と自覚してしまうのが私の恐怖。「”知覚する私”を認識する<私>」を無限環に陥らずに設定できるのだろうか。

つまり、その中で充足している人間は、”外”のことなんか考えない。考えないから分からない。自分とは関係のない”外の発想”で、そこに充足している自分自身を切るなんていう、つまんないことはしない。その内側で充足している人間は、自分を充足させてくれる”内側の基準”でしか物事を考えないんだ。

[…..]

自分自身の基準に満足して、自分自身を勝手な基準で割り切っても、全然平気でいられる。自分自身にまつわる物事が複雑になって、「自分一人の基準ではもう割り切れない」と思った時、人間ははじめて、その充足している”内側”から出ようとする。内側から出て、慣れない”外側”の心細さに耐えかねて、改めて失われてしまった”内側の安らぎ”というものを、求めたり、再構築したりする。

しかし、一度”外”というものを知ってしまった人間には、もうかつてのような”自分一人で充足出来ている完全な安らぎ”というものは、訪れない。なぜかといえば、一度”外”に足を踏み出そうとした人間は、もう”外”という、自分とは異質な世界があることを、知ってしまっているからだ。

臆病な人間は、だから、その”外”というものを知ることによって生まれてしまった。、不安というものをシャットアウトしようとして、内に深く深くこもろうとする。まともな人間は、”内”と”外”との二つある基準の中で、なんとかしてバランスを取ろうとする。落ち着いているのはどっちだろう?落ち着かないのはどっちだろう?

“内”と”外”との間で、ゆらゆらと揺れながらバランスを取ろうとしている人間の方が、もちろん、落ち着かない。ともすれば揺らごうとする自分を、「危ないんじゃないか?」とも思う。でもしかし、本当に危ないのは、”外”の存在を知っていながら、その”外”を拒絶して、架空の”内”に安定してしまった人間なのだ。

『貧乏は正しい!』 P.178-179