書けるとき書けないとき

ブログを書いていると不思議な気分におそわれる。毎日書くつもりが書けない。自分のリズムなら毎日書けるよな、っと思う。でも身体は準備できても頭がついていかない感じ。「絶対毎日書かなければ」系mustに追い込むと気分は鬱。なので、「まぁ、どうでもいいや」ってスタンス。お気楽。でも、一応PowerBookの前に向かう、1日1回。すると、「ああ、書けるな」とか「やっぱり今日は書けないや」がだんだんわかってきた。

書けるときは何をしていても書ける。例えば、電車や自転車に乗ったり、スタバにいるときとかニュートラルなときの他に、本を読む、DVDを観る、CDを聴くなんて意識が「書く」に傾いていないときでも「あっ、そうか。コレ書こう」って浮かぶ。

「浮かぶ」と書いたのはイメージ。書けるときは、「頭の中に文体と展開がそっくりそのままふわぁと現れる」みたいな。単語が次々おもいついて文章になるのではなく、調子こくと、「いきなりできてるやん」って自己満足も年に数回あったりする。そんなとき、「これは一体なんだ?!」と首をかしげる。

いかがでしょう?

「考える」が前提としたら、「完成型」がいきなり目の前に出現するなんて驚きますよね。やっぱり設計図を作成して、それから組み立てて、ときに修正するのがフツウだろって思っていたので、「完成」が先にくると気味が悪い。

でもやっぱりうまくなっているもので、そういうアウトプットは数ヶ月たって読み返すと、「ああ、やっぱり違うなぁ、そら暴論だろ」ってけっこうあったりする。そんなとき、「あとで読み返したとき、アウトプットの精度や確度が高いテキストを書ける人(=あまり修正させられない人)」が天才なんだといつも心中独りごちる。修正させられない人って受動態?!にしたのにもワケがあって、「他者と私」の両方から「修正させられない」って意味を考えた。「頑固」と紙一重かもしれない。そのへん、よくわからない。フレキシブルのようで実はブレない、でも"外"を吸収して知性に変換する視座をもっているような。まぁ、低能の私からすればそんな人はうらやましいかぎりです。

反対、書けないとき。さっぱり。ただ、書けないには二つあるかな。ひとつは、「身体は準備万端、頭がぜんぜん」で、もうひとつは「頭は回転している、身体がダメダメ」。どっちがどうの見極めはまだ自分ではしっかりできない。なりゆきにまかせたりする。

「書けるとき書けないとき」はなんだか3分間スピーチの「話せるとき話せないとき」に似ている気がしてきた。