[Review]: 危機の日本人

危機の日本人 (角川oneテーマ21)

愚見するに、評価は「外」からやってくるもので、「内」からやってくるものではないとわたしは常々考えていた。本書を読了して、「”外”と”内”の両者において、”外”からの評価と”内”の実情に落差があって当然である。が、まったく位相の異なる”内”、つまり”外”からの評価に代入すらされない”内”がある」と痛感した。

「日本人は武勇にして礼譲を知り軽快にして可憐なり。深奥なる思想無けれども才気あり、高邁なる知識あらねど怜悧にして機巧なり。受容性に富みて知識を貪ること飢えたるが如く、製作する物は崇高の性を欠けども巧緻にして優美なり。また日本国民は文明の恩恵を多く外国より受くるもの有るにもかかわらず、その有する文明には独創の跡、歴々として見ゆ。日本人はただ受売りし、借用するばかりにては決して満足せざりしなり。

『危機の日本人 (角川oneテーマ21)』 山本 七平 P.54

1864年に通訳として来日したウィリアム・ジョージ・アストンの日本を評した一節。通訳という職務上、日本語ができたので在日25年間詳しく観察していたらしい。本書には幾人もの外国人による日本人論(評)が引用されている。どれも判で押したようである。礼節を重んじ、好奇心が非常に強い反面、抽象的・形而上学的事象には興味を示さない。忍耐強く、恥辱を受けることに激しく抵抗する。そんな気質が延々書き連ねてある。

他方、韓国人姜ハン(ハンは「坑」の偏がさんずい)が『看羊録』で記した日本人論は手厳しい。ただし、それには理由がある。姜ハンの背景がきちんと説明されていて、彼は秀吉の朝鮮征伐(韓国では「壬辰・丁酉倭乱」)のときに捕虜になった。したがって、もともと良い印象を持っていない。

(倭人は)互いに号を呼ぶのに、あるいは『様』といったり、あるいは『殿』といったりします。関白から庶民に至るまで、これを通用されております。夷狄(倭)の等威(上下の区別と威厳)のなさはこのようであります 同P.68

欧米人の礼賛と韓国人の酷評、対照的にとりあげている。この際だたせた構図の底意は那辺にあるのか首をかしげる。「看羊録」が当時の日本の風俗・文化・情勢を分析したもっとも貴重な資料であったとしても、「印象を良く持っていない人物」とわざわざことわったうえで俎上に載せたのはなぜだろうか?

まるで「古来から日本の評価はこうであった」と帰納するかのようで、文字になってしまえば、「評価」として固定してしまう。が、わたしの興味は、この固定させた評価になる前の「言葉になっていない筆者の思考」に向けられる。はたして本当に当時の日本人論はかように固定的なものだったのだろうか?もちろん、無知蒙昧の輩であるのでわからない。

ただ、上記の構図を設定して読んだとき、ある共通項がうかびあがった。それは「政治」である。欧米人と韓国人、”外”からの評は「政治」が密接に関係している。両者には政治と一線を画している「集合体」だけに焦点があてられた評価はない。

そしてそれを待っていたかのように、第三章に『人鏡論』という書物が紹介される。通俗娯楽的説話ですこぶるおもしろい。出版されたのは、徳川時代の異能の町民富永仲基が登場する半世紀前、著者は不明。

  • 神道の大事も金が無くては知る事かたし
  • 極楽の沙汰も金しだい
  • 銭を父とし、銭を子とし、銭を友とし
  • 銭の味ばかり知りて食事の味知りたる人なし
  • 賽銭しだいで僧侶も神前に

何をするのも銭だという「現実」の笑い話のオチは予想もつかない「理想」がまっていた。本音なのか建前なのかわたしにはまったくわからなかった。ただ学術書でも歴史書でもない娯楽書に、「庶民」の深淵を覗き見したかのようだ。「人鏡論」に登場する話はあきらかに欧米人や韓国人といった「外からの評価」とはまったく別の「集合体」が伺える。このまったく別の集合体が存外、”ほんとう”であるのかもしれない。

自分でもよくわからないまま愚にもつかないことを考えている。「評価とは一体何なのだろうか」という一点が頭から離れなかった。そんなとき、ふと、わたしから最も距離が遠い「政治」に目を向けたとき、本書の意味がほんの少しだけわかったような気がした。

善悪是非のいずれにせよ小泉首相の言葉はわたしに響いた。が、次期首相に内定している政治家の言葉はわたしには何も響かない。先日上梓された新書も立ち読みしてみたが反応しなかった。なぜこれほどわたしに響かないのだろう、他の方々はどうなのだろうかと喉に小骨がささったまま本書を何度も読み返す。

そしてふと、「ああ、今度の首相は欧米人や韓国人のように”外”からの評価みたいな話をしているのかなぁ」とぼんやりながら感じた。眼前の政治家からはなにか固定的な印象を受ける。ときに絶対的であるのかもしれないとすら抱く。先入観や感情的な要素をカウントしても、そんな風に嗅ぎ取ってしまうのはなぜだろうか?