…ができないで自分を語る

レヴィナスと愛の現象学

内田樹先生の書籍を何度も再読すると不思議な感覚に襲われます。それは、「ページの折り目が不安定」といった感覚でしょうか。たとえば、司馬遼太郎氏の書籍を読み返すと、ページの端を折っている箇所はある程度「一定」しています。「ああ、やっぱり”ここ”で反応するか」という文脈が自分のなかで安定しているわけです。内田樹先生の書籍はその反対です。以下のセンテンスが、今回、私を呼び止めました。

「教育を受ける」とは、ほんらい、「私は…ができる」という能力を量的に拡大してゆくことではない。そうではなくて、「私は…ができない」「私は…について知らない」という不能の様態を言語化する仕方を学ぶことなのである。[…]多くの人が誤解していることだが、「…ができる」と言うことよりも「…ができない」と言うことの方がずっとむずかしい。

『レヴィナスと愛の現象学』 内田 樹 P.19

「…できる」は履歴書に置換すれば得心します。「英検○級、珠算○級、普通免許取得」といった「…ができる」がリスト化されたとき、(具体的能力の)程度は別として、履歴書の読み手はそこから何かしらの「知的ポジション」を測定します。しかし、履歴書に「…できない」「…知らない」が列挙されていたらどうでしょうか?それ以前に、書き手の「私」はそもそも「…できない」という仕方で「知的ポジション」を相手に伝えることが可能でしょうか?

「…ができない」「…を知らない」という言明を通じておのれの不能のあり方について相手になにごとかを伝えるためには適切な語法を習得しておくことが必要である。それは自分の位置を語る語法である。「マップする」ための語法と言ってよい。自分がどこに向かっていて、いまどこにいて、どこに分岐点があって、どの道をとればどこへ出るかについての「俯瞰的な眺望」を語ってみせることである。自分自身の不能のありようを相手に伝えるためには、自分自身を含んでいるネットワークについて、どれほど不完全であっても「俯瞰的な視座」に立つことができなくてはならない。

「俯瞰的な視座」の獲得は独りで為し得る行為ではないと思います。ここに「他者」から獲得する「私」への道筋があるのではと自分はアタリをつけています。ただ、「他者」といっても自分の「同類」では、この視座を獲得できなのではないかと疑っています。

先生の言説に納得しているにもかかわらず、膨大な知識を自己にインストールすることは、愚生にはとても魅力的に映ります。理由は、私の「迷い」がもたらす「恐怖」を自身がコントロールできないからでしょう。

なぜ「恐怖に感じるのか?」と自問すれば、今の私は「”できること”と”できないこと”が峻別できないからだ」としか答えられません。独立して以来、「自分ができないこと」を査定するのは存外むずかしいものだと特に意識するようになりました。

「できること」を考えて売上を上げることを実行する—–廃業を前提にしたら最善だとわかっていても、魯鈍な私は「できないこと」をひとつひとつ積み上げて、結果、生き残った「私」がいつか見えてくるかもしれないと愚考します。その積み上げていく行為が、私にとっての修養であり、規矩となります。ある種、博打のような感じがしますが。まぁ、自分をクールに信用することが唯一の糧です。

不思議なもので「できないこと」によって己を語るべく言葉にしようと努めれば努めるほど、必要のない要素をそぎ落としていけるような気がします。これは「あきらめ」ではありません。「俯瞰的な視座」に立ちたくてもがいているうちに、納得して「手をつけない」といった感覚でしょうか。

くわえて時間軸・空間軸・自己軸が変化しはじめ、その中で出会いたい人びとも自然淘汰されていきます。ただし、恣意的に淘汰しはじめるのは危険だと認識するよう信号を送ります。

「恐怖」をコントロールするには、「恐怖」から「不安」への変換が必要だと思います。それには、自分は何ができないのかを冷静に内観(すみません、適切な語彙を知りません)できるかどうかに左右されます。その内観は、独りではできず、他者に求める行為であり、それゆえ、自分の位置を自分以外の人に語る「仕方」を体得していかなければなりません。

とは申しましても、そう易々と「俯瞰的な視座」に立てるわけもなく、だから源氏物語は「ままならぬ世」と評したのではと誤解する日々であります。私にできることは、「自分を固定しない」ように気をつけるだけかなぁと愚考したりしています。

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