[Review]: スローライフでいこう ゆったり暮らす8つの方法

スローライフでいこう―ゆったり暮らす8つの方法 (ハヤカワ文庫NF)

「スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化」で何に対してスローになるのかと書き、「本の読み方 スロー・リーディングの実践」で自分を固定しない可変のスピードと一定の速度からの脱却にふれた。いずれの著も私には「スロー」とは違う様態に映った。そして本書に出会った。「何に対してスローになるのか」を示唆してくれた。スローに形容や修飾もつかない。ただ周囲からゆるやかに自己をずらしてゆく果てに出会う自分、その自己との対話を淡々とのべている。

人生における問題は、じつはあなたの外にあるのではなく、あなたの心の中にあるのです。すべてがあなたの心の中で、あなたの心によって決まるのです。もしあなたがこの問題は自分には解決できないと思っていると、たとえどれほど高い能力をもっていても、あなたは自分が思っているとおり、問題を解決する能力がないと証明するだけに終わります。自分にはこの問題を克服することは無理だと思っていれば、決してそれを克服することはできないでしょう。このような否定的な考え方をしていては、どんな人でも、次第にうまく機能することができなくなってきます。『スローライフでいこう―ゆったり暮らす8つの方法』 P.28

エクナット・イーシュワランが88歳の生涯を閉じたのは1999年10月。1959年、48歳のとき、フルブライトの客員教授としてインドから渡米してきた。以来、40年にわたりアメリカの人々に瞑想を教えてきた。3人の人物が氏にもっとも影響をあたえた。3人はたびたび登場する。それが、おばあちゃん(母方の祖母)、ジョン神父、そしてマハトマ・ガンディーである。3人を崇拝する背景には、故郷インドの伝統や文化が色濃く反映されている。その一つが、「瞑想」である。本書の主要テーマでもある。瞑想が日々の生活に充実をもたらすとイーシュアランは力説する。ただし、瞑想のくだりは、人によってはすこしとっつきにくいかもしれない。

エクナット・イーシュワランはスローライフでいくために、8つのプログラム(「エイト・ポイント・プログラム」)を実行している。それが、

  1. スローダウン
  2. 一点集中
  3. 感覚器官の制御
  4. 人を優先させる
  5. 精神的な仲間をつくる
  6. 啓発的な本を読む
  7. マントラ
  8. 瞑想

私が咀嚼できたのは1〜6まで。7,8は難しかった。特に、瞑想はよくわからなかった。ただし、誤解がないように申し上げると、書店に平積みされているような「マーケティング色」はない。とにかく、「あたりまえ」のことしか書いていない。それを実践できないのがなぜかを問いかけてくる。

私は、「本を読みながら食事をしてテレビを視る」し、「同時にいくつもの仕事に携わる」こともある。本は「読んだ」、食事は「した」、テレビは「視た」という結果だけが右から左へ疾走してゆく。仕事も「やった」が残っている。ひょっとすると、「やった」という感覚すら失いかねない。自問する時間がない。何を自問すればよいのか愚考できない。頭だけでなく、五感で味わえなくなっている。

私見だが、忙しいは”心を亡くす”と書く。だから、「ご多忙中のところ恐れ入りますが」と言わずに「ご多用中のところ」と言う。若いときは何をバカなことを意味すると嘲笑したが、今、まさに「忙しい」がこの意味で使われているのではないか。ややもすると、「ただ動いているだけ」の人が「忙しい」と羨望のまなざしを送られる。

ストレスや、人間関係における悩みから、環境破壊にいたるまで、現代人が抱えている問題は、元をたどれば、「自分は何者か」がわからないという根源的な問いにつきあたります。というのは、わたしたちが高い目的をもてずにいる理由のおおもとがこの点にあるからにほかなりません。人間を物質的な存在だと考えているかぎり—マスメディアは毎日毎日、わたしたちにそう吹きこんでいます—物質的な欲求をすべて満たそうとせずにはいられないでしょう。同P.218

有限のなかで無限を獲得できない。となると、「選択」せざるを得ない。その時、何を選択するかの前に、「自分は何を必要としないか」を判断できる「私」がいるのだろうか。それを私はずっと考える。「自分は何者か」である前に「自分は何者でないか」を自問する。これはある意味無限個に近いを問いを立てている。有限個の私に対して無限個の問いをたてる矛盾—–ここに「五感」と「外界」を結ぶバイパスがあるような気がする。

「忙しいだけでは十分ではない。問題は、何に忙しくしているかだ」と言ったのはソローですが、この問いかけはじつに有益だと思います。いつ行動に飛び込み、いつ行動から身をひくか、それを知るには、判断能力—客観性と識別力—が必要です。インドには、「最大の危険は、識別力の欠如である」ということわざがありますが、識別力がないと、いつ身を投じるべきか、いつかかわりを捨てるべきかがわかりません。同P.120

Henry David Thoreauが”It’s not enough to be busy. The question is what we are busy with.”と名言を残したのは1817-1862年、本書の原題『Take Your Time』が出版されたのが1994年。「今」が忙しいのではなく、「昔」から忙しかった。「私たちの時代」を特別視してはいけないと思う。自己の時間軸を拡げ、私は何者でないかを起点に何ができないかと愚考する。無限の可能性から有限の行動へと絞り込む。

自分の生活を、このように見直すことの意義は、やりたいことすべてをやることが無理だということを、自分自身に認めさせることにあります。いったん、そう納得できれば、あなたは「本当にやりたいことは何だろう、何が一番大切なのだろう」と自問するようになります。リストを作らないままで進んでいけば、日々の生活からうけるプレッシャーは増加の一途をたどるでしょう。同P.60

スローは「ゆっくり」であるけれど、それは他者に強要するものではない。私のスローが他者からすれば「ファースト」であってもよい。「熱湯にふれれば1秒が数十分に感じ、恋人とすごす数十分は1秒に感じる」ような相対性なのだろう。だから「時間と私」とは何だろうに帰着する。皮肉なことに、「人は働くほど暇ではないのだ」も真なのかもしれない。