[Review]: 思考の整理学

思考の整理学 (ちくま文庫)

1986年4月24日第1刷、2006年9月5日第31刷。「本を読む本」「読書術」の類の原書ではないかと独断すると書いた。同様、本書は「思考術」の類の原書ではないかと臆断した。「考えることとそれを整理する楽しさ」を満喫させてくれるエッセイである。

勉強し、知識を習得する一方で、不要になったものを、処分し、整理する必要がある。何が大切で、何がそうでないか。これがわからないと、古新聞一枚だって、整理できないが、いちいちそれを考えているひまはない。自然のうちに、直感的に、あとあと必要そうなものと、不必要らしいものを区分けして、新陳代謝をしている。

『思考の整理学 (ちくま文庫)』 外山 滋比古  P.115

必要と不必要を区分けするには、”忘れる”が大切である。研修に出席してメモをとる。すると、文字で記録した安心感が増幅するのか、しばらくすれば忘れる。ややもすれば、「メモをとる」ことに熱心になり忘れるはずのないものまで忘れる。ぼんやり聞いてはいけない。興味ある内容を熱心に聴けばなかなか忘れない。なぜ忘れるのか。それは本人が「価値観」を持っているからだ。

忘れるのは価値観にもとづいて忘れる。おもしろいと思っていることは、些細なことでもめったに忘れない。価値観がしっかりしていないと、大切なものを忘れ、つまらないものを覚えていることになる。同P.115

筆者は「価値観にもとづいて忘れる」と言う。私は価値観ではなく規矩をあてはめる。「忘れる」を「判断する」に置換してみたら得心する。「判断する」という言葉を安易に使ったとき私は後悔する。判断するための「基準」は何であるのかを共有せずに使っているからだ。人によって「基準」は千差万別である。。みな己の「基準」で思考する。その思考を言葉にしたとき、すでに「基準」は奥へ押しやられている。聴き手には「基準」がわからずに「言葉」だけが飛び込んでくるから面食らう。「基準」を共有するプロセスがぬけている。「捨てる」も同じだと思う。共同生活しているとピントくる。「捨てる」の基準が、私と同居人では違う。だから齟齬をきたす。

「判断する」と「捨てる」に逸脱したので戻す。「忘れる」にはもう一つ大切な要素が伏流している。それが「時の試練」だ。古典がなぜ古典として現代に受け入れられるのか?厚顔無恥を承知で暴論を吐けば、「忘れられなかった」からだろう。価値観が色々あれど、いずれの時代の人にも是非できる価値観が古典に含まれていたから現代に承継されたのではないか。「時のふるい」や「忘却の濾過槽」をくぐってきたのだ。

では、己のなかにある「忘却の濾過槽」をくぐり抜けたいならどうすればよいのか?それには、既知から未知へ変換し、さらにまったく新しい視座を獲得する行程が必要なのではないだろうか?

たとえば、先日、私は内科にお世話になった。これは私にとって既知である。その既知を未知に変えるには、「私が知らない事象の存在」を想像する力が求められる。既知のフレームを駆使して想像力を働かせる。さらに、その未知を経験したのち、まったく新しい視座を獲得するには、「私には到底理解できない世界」を認知しなければならない。今までのフレームがまったく通用しない。この新しい視座を獲得するときに、己の価値観に拘泥してしまうと「忘れる」のではないだろうか。

本書では「価値観を持つ」が前提となっている。しかし、その前提が思考の整理学において問題なのだろう。