即戦力を予言していた内田樹先生

「即戦力」を求める人は自分が「即戦力」であると問うているのだろうか?

Sankei Web 保護者対応に苦慮、若手教師 「即戦力」がニーズ

今年6月、採用後わずか2カ月の女性教師=当時(23)=が自殺した。保護者から指導法について糾弾されたことが背景にあるとみられ、遺書には「私の無能さが原因です」とあった。経験豊かなベテラン教師の大量退職時代を控え、保護者がいま、若手教師に求めるものは「即戦力」だ。大学生を対象とした養成塾を開講する自治体も出てきており、「現場に出てからじっくり鍛える」という考え方は過去のものになってきている。

内田樹の研究室 即戦力といわれても

私はもともと「キャリアデザイン」とか「キャリアパス」という考え方を好まない。平川君の名言を引くならば、「資格や肩書きがものを言うと思っている人間」の前には「資格や肩書きがものを言うと思っている人間たちだけで構成されている社会」への扉しか開かないし、「金で買えないものはない」と思っている人間は「金で買えるものだけ」しか存在しない社会の住人になる他ない。しかし、愛も敬意も知己も知性も胆力も感受性も師も・・・総じて私たちの生活のもっとも根幹をなすリソースのうち、威信や財貨によっても購うことのできるものは一つもない。


私には是非を判定できない。だから独立する前の私と独立した後の私を述べる。独立する前の私は、「技術>知的資源」だった。独立した直後の私もそうだった。書店の本棚を前にして、ウェブサイトにまつわる技術書であれば、右から左まで大人買いした。

社会人になって10年、今では「技術<知的資源」となった。ただし、ここでいう知的資源とは「よく知っている」という意味ではない。「独力で問いを設定するに必要な"仕方"」である。また、技術を蔑視するのではない。「技術<知的資源」になった理由は何か?単純、加齢である。

かつて3.5インチHDDは数GBが数万円〜数十万円した。それが今や300GBが1万円そこそこである。そして、CFやSDが登場した今、あと数年後には3.5インチHDDの役割は主役から脇役へ転じるだろう。それが技術の進歩だ。私を3.5インチHDDに置換したとき、「秒進分歩のウェブサイトテクノロジー」をあと何年追いかけられるだろうかと自問した。体力・気力・知力の均衡を維持して。

その結果、私が欠けている能力を補完して相互扶助できるよう人を採用しようと考えた。つづいて私にできないことは何かを自問しつづけた。そして、「人を採用できる売上を計上する」のが私にできることだと気づいた(遅すぎる)。

視点の変化である。採用される側から採用する側へ移行したにすぎない。それに加齢が襲ってきた。採用する側に移った瞬間、「即戦力」というタームが無くなった。"「どこの会社でも汎用性のあるスキル」であり、どこの会社でも同じようなパフォーマンスを発揮できる人間"になっても人を採用できないからだ。つまり、そこではじめて差別化の意味が理解できた。

私の場合、幸か不幸か自己の中に「差別化」は潜んでいた。ただし、それは他者との差別化ではなく、「昨日の<私>との差別化」であったため、問いは<私>に向けられていた。その問いが、

市場とは何か?」「貨幣とは何か?」「交換とは何か?」「欲望とは何か?」といった根源的な問題を決して問わないことを習慣づけられてきた凡庸なビジネスマンは「学びとは何か?」といった根源的な問いを自らに向けたりはしない。

であった。それも、単なる「自問している自慰行為にすぎない」と気づいた。正確には他者から気づかせてもらった。問いが<他者>に向けられていなかった。

立場が変わればわかることがある。だから、パソコンを使えない団塊の世代に出会っても昔のように苛立たない。ひょんなことからパソコンに興味をもったとき、私が何かの役に立てればいいと備えるだけだ。

だからあえて問う。「即戦力」を求める人たちは、「どんなに加齢してもどんなに技術が進歩してどのような会社であっても自分は即戦力である」と自問しているのだろうか。