前作『男たちへ』の続編。「再び」とタイトルにあるが、おもむきはやや異なる。印象としてはよりエッセイの匂いが強く立ちこめている。身近な事例から次数の位をあげていき、やがて普遍的な思考を導きだそうとする論考が前作なら、今回はあえて論考を途中で止めてしまっている感がある。しかし、事例にまとわりついている余分な要素をそぎ落とし、根本にある「何を言いたいのか」を考えながら読むと、とても味わい深い。歴史を学び続けている人がもつ「時間軸」をかいま見られる。
国家であろうと企業体であろうと個人であろうと、衰退は起こらないではすまない。だが、ミもフタもないことを言うと、興隆したから衰退もするので、興隆期をもたなかったものには衰退も起こりえないのである。それゆえに衰退は、盛者にのみ許された特権である。しかし、誰だって衰退はしたくない。とはいえ寿命というものはある。だから必衰でもあるのだが、それでもなるべく先へのばしたいし、あわよくばもう一度、盛者になれないものかと考えるのは人情である。そして、長寿を享受した国家はそのすべてが、興隆と衰退の波を幾度もくり返すことのできた国家であったことは、歴史が証明してくれている。
「興隆」と「衰退」は、どちらか一方だけで成立することはない。コインの表と裏の関係である。「表」だけを注視すると何かを見落とす。「裏」もあることを認識できるかが問われる。あるいは想像する、想定するか。「表」と「裏」の関係を熟知した人が描く案内図は、それを見る者に驚きをもたらしてくれると思う。一度でいいからその視座から俯瞰してみたい。塩野七生さんの著作は、どこかに「裏があるから表があるのだよ」を気づかせてくれる。だから「理」だけを説くのではなく、「情」にも訴える。
読み手の私は、それらから「あっ、そうか弁証法のスタートラインはそこにあるのか」と気づく。気づけたときの<私>。この<私>をもたらしてくれる叡智は他者にしか存在しない。
本書の最終第63章は、「無題」と表して、それまでとは異なっている。章全体にわたってマキアヴェッリの言葉をいくつも引用して終始する。それだけである。まるで500百年前のイタリア・ルネサンス時代の政治思想家がすでに「考えている」、さらに古くはローマ帝国の賢人もギリシャの哲学者もそうであったと言いたげだ。その中で私の琴線にふれた言葉をふたつ。
「誰だって誤りを犯したいと望んで誤りを犯すわけでもない。ただ、晴天の日に、翌日には雨が降るとは考えないだけである」
「天国に行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである」