[Review]: すべては脳からはじまる

すべては脳からはじまる (中公新書ラクレ)

読むよりも味わう、まるで美食を堪能しているかのような一冊。テーマは「多様性」、読み手も千差万別の受け取り方ができる。脳科学者ではない心の哲学者の顔が現れる。

私は以前から、「自分を疑うことを知っている人が好きだ」と思っていた。敬愛する夏目漱石が好例であるが、知性というものは、自分自身の立場を疑うところからはじまると思っていた。自意識過剰な若者が利いたような口を叩くのを目にするたび、「やっぱり自己懐疑のないやつはダメだなあ」などと思っていた。
ところが角川さんに接して、その考えが少し変わった。自己懐疑などないほうが、かえってうまくいく職業が世の中にはあるんだなあと思った。

『すべては脳からはじまる (中公新書ラクレ)』 茂木 健一郎 P.226

「読売ウィークリー」の連載がもとになっている。以前の『脳の中の人生』から『すべては脳からはじまる』にタイトルを変え今も続く。タイトルのとおり、身辺で起こる事象を脳を起点に観察する。が、ヒトのすべての行動は脳機能によって説明可能なわけではない。養老孟司先生の「脳化社会」同様、レトリックであり、脳と極をなす心の有り様が描かれている。

テーマの「多様性」について筆者は直接言及しない。愚考するに、「多様性」を定義すれば、「多様性」は「一種」になり、そこに矛盾が生じるからではないだろうか。「多様性とは何か?」を言語化するために眼前で生じる事象を追いかける。

人間は複雑な存在だから、内心何を考え、感じてるかは、なかなか人には伝わらないと留保すればこそ、「その考えが少し変わった」という思考がやってくる。「自己懐疑を知らないほうがよい」と思わせるような職業に出会う偶有性が人の脳に刺激を与える。偶有性によって、人は自己を変容させる。偶有性に遭遇する機会を自ら潰してしまわないのが肝要であり、潰さないためにも「心の持ち方」が問われているのだと私は思う。

ルールを設計するということは、人間の脳の機能としてもきわめて高度なことの一つである。ある行為に没入してしまうのではなく、その全体をあたかも外から見ているかのように観察し、評価する「メタ認知」と呼ばれるはたらきが機能することが必要となる。
メタ認知は、人間の創造性と深く関係している。ルールが確立したことで、その後、長い年月にわたって多くの人がプレイを楽しめるプラットフォームができあがる。考えてみれば、これほど創造的なことはないだろう。同P.67

ルールを設計する難しさ—–これは日々の仕事でも直面する。たとえばミーティングのルール、ウェブサイトのルールがそうだろう。ルールのないミーティングは無秩序と化し、一体何を共有している(あるいは決定している)のかわからない。時間だけを消費していく。ウェブサイトでは制作者が自己陶酔に浸る。するとユーザビリティーの視点を忘れ、サイバースペースに情報を放置する。

特に印象に残ったのは伊藤若冲の『糸瓜郡虫図』のくだり。

遠くから見れば、どうせわからないだろうに、若冲は細かい所まで手を抜いていない。『糸瓜群虫図』を一億画素以上の超高精細のデジタル画像として取り込んだ結果、わかったことは、どんなに拡大しても、あらが見えないということでした、と細見さん。長年の所有者でさえ、じっくりと眺めてはじめて気づくような発見があるのだ。同P.89

一億画素であらが見えない絵とはどんな絵なのだろうか?まったく想像できない。とにかく細部の細部に至るまで手を抜いていない。伊藤若冲は「最後の京都の町衆」と言われ、いわぱ「絵のプロ」ではない。金があるから「趣味」に好きなだけ時間を費やせ、おまけに高額な顔料を使えたという一因も見逃せない。しかし、おそらく視認できないであろうほど細部にまで手を入れ続ける情熱にプロもアマもない。時代のフィルターでふるいをかけられても後世に残る作品とはそういうものなのだろう。『糸瓜郡虫図』を観た筆者は最後にこう締めくくる。

伊藤若冲が人気を集めている背景には、何事にしてもコミュニケーション過多で、わかりやすさや最大公約数だけが求められがちな現代で、人々の中に”清涼剤”を求める気持ちがあるのだろう。広い外界との折衝など考えず、小さな世界に立て籠もることで、かえって世界全体に通じる普遍性を得ることができる場合もある。若冲の「こだわりパワー」は、私たちにそんなメッセージ伝えてくれるのである。同P.91

脳と心を往来している筆者の姿にトレースすると、人工と自然の差異が浮彫になる。<私>から私の身辺へ、そして地域へ、さらに国へと視野を広げ、やがて地球を抜けて宇宙へ到達する。それからもう一度、順に地球、世界、国、地域、私の周囲、「私」へと戻ってきたとき、ぐるりと戻る前の<私>と違うのではないかと愚考する。こんな愚にも付かない妄想を与えてくれる一冊。脳に与える知的興奮。

なんだかとりとめのないレビューになったけどご容赦を。

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