[Review:]: 「狂い」のすすめ

「狂い」のすすめ (集英社新書)

私も草葉に陰にゆくまでに「狂い」たいと切望する。

わたしたちは、ついつい他人の評判を気にします。他人に貶されるのがいやで、また他人に褒められたいのです。それは世間を気にしてることであり、世間の奴隷になって生きていることです。禅僧が教えてくれているのは、奴隷をやめて、—–自由人になれ—–ということです。[…]では、どうすれば自由になれるか。世間はしたたかです。なかなか手強い。そう簡単にわれわれを解放してくれません。そこでわたしは、「狂う」という武器を考えました。わたしたちはみずから「狂う」ことによって世間の軛から自由になれるのです。『「狂い」のすすめ』 P.197

孤独に生きるのではなく、孤独を生きる。「人生は無意味」というのが真の「人生の意味」。筆者の言葉はきらびやかな逆説に満ちている。刹那ではない。<私>から出発して時と空間を超えて周回して<私>へ帰還したような叡智が宿っている。世間に踊らされず、世間の呪縛から己を解き放つ。それが「狂い」。

世間は手強い、一筋縄ではいかない。またどこかおかしい。植林だと言って杉の木を植えれば、花粉症に悩まされる。「贅沢は敵だ!」と叫びながら戦争したかと思えば、「贅沢は素敵だ」と謳歌する。「もったいない」と連呼しながら街中にモノがあふれている。

中国の昔の話。ある男が仕官しようとして、学問に励んだ。なぜなら時の皇帝は文人を重用したからだ。そしてようやく任用されそうになったとき、皇帝は死に、次の皇帝は武人を採用する。すると、男は武術を習い始める。ようやく武術で仕官できそうになったとき、また皇帝が死ぬ。次の皇帝は若者だけを採用した。そのとき、男は年を取りすぎていて結局、仕官できなかった。

世間を象徴した話である。何も今だけがおかしいのではない。昔の人も世間を穿っていた。闇雲に疑うのではない。先人の知恵を拝借する。それを筆者は哲学といい、「狂え」という。

なかでも『人間の絆』の逸話が印象にのこった。「人間の歴史」を知りたいと思った東方のある国王の話。

国王は学者(賢者)に命じて、人間の歴史を書いた五百巻の書物を蒐めさせました。けれども、政務に忙しい国王は、五百巻の書物を読む暇がありません。で、国王はそれを要約するように命じました。同P.64

二十年後、学者は五十巻の書物に要約した。そのとき国王は政務から離れていたので時間はある。しかし読む気力がない。そこでもっと短く要約するよう命じる。さらに二十年。学者は白髪になり杖をつきながら一冊の書物を携えて宮廷にやってきた。

ところが、そのとき国王は臨終のベッドにいた。一冊の書物すら読めなかった。そこで、学者は国王の耳に「人間の歴史」をわずか一行に要約して話して聞かせた。

…..賢者は、人間の歴史を、わずか一行にして申し上げた。こうだった。人は、生れ、苦しみ、そして死ぬ、と。人生の意味など、そんなものは、なにもない。そして人間の一生もまた、なんの役にも立たないのだ。彼が、生まれて来ようと、来なかろうと、生きているようと、死んでしまおうと、そんなことは、一切なんの影響もない。生も無意味、死もまた無意味なのだ 同P.65 中野好夫訳、新潮文庫

「人は、生れ、苦しみ、そして死ぬ」—–この事実の前に誰も逆らえない。しかし、この一行を根源的な問いとして立てたことがあるだろうかと私は自問した。

「狂う」のは世間が狂っているからである。狂っている世の中で己を狂わせることによって、まともになれる道へたどりつく。世間の狂奔を醒めた目で眺める心の余裕を得る、それがまともである。世間が狂っているから私は狂う。すると、まともが掴めて自由人になれる。皮肉な話。

全編がアイロニーとパラドックスで綴られている。まさに狂っている。