F先生はステキだ

F先生のエントリーを拝読。何度も何度も読み返す。書いてないことと書いている向こう側の意味を掴みたくて必死になった。目を皿にしても戯奴にはわからない。

F先生が手に掬われた言葉と意味、その数は私の比じゃない。ましてF先生の行動はさらにあざやかな色を帯びていらっしゃるはず。だとしたら私がもっているアナロジーから深淵をのぞこうとしても、私の現象の埒外にあるのかもしれない。想像を超えた事象。

F先生のもとを訪れる来院者がうらやましいなぁと感じた。「呪縛」と「開放」、F先生の真率な苦しみに絶対の信頼をよせている(天の邪鬼な私は信頼するけど信用されるのは苦手)。矛盾を抱えず立て板に水のように理論を話したり、知識を獲得して行動を置き去りにしている人がいる。いずれも私の集合と交わらない。

矛盾が言葉と行動の源泉だと思う。

普遍性や客観性を主題にした「科学的な知」が、見過ごしてきた「個別性」「主体性」が発生しうる個々の局面に「臨床」がある。『生のあり方と「Well-Being」』

私の日常は「「個別性」と「主体性」の個々の局面」のひとつにすぎない。膨大な「個々の局面」があり、その光景を前にしたとき科学の知性は「再現性」と「普遍性」を選択した。秩序とシステム、それを見失えば「一回性」の前に科学の知性は立ちつくしてしまう。

普遍と個別、対峙させてはならない。どう溶解させるか。社会はまだその解の方程式を発見していない。

それは「言葉」に生成されていない。

「言葉」はそれ自体ラベルにすぎないと思う。F先生と来院者、両者に言葉がある。そこに行動が介在したとき、「意味」を持つ。意味が多義性に発展したとき自己増殖し、やがて意味が両者のもとへ帰着してあたらしい「言葉」が生まれるのでないかと期待してやまない。

私はF先生が大好きだ。

なぜなら、言葉というキャンバスに意味という絵の具をつかって「生のあり方」を創造していく。その描く姿は苦悩でしかない。

苦悩を抱えている姿がF先生の生を鮮やかに映し出し、そばにいる人を惹きつける。想像を絶するほど惹きつける。

もう少し書きたいけど、もうちょっとまとまってからにしたいので、とりあえずはここまでです。