排泄行為と看護

安楽病棟 (新潮文庫)

[Review]: チーム・バチスタの栄光 を読了して白鳥圭輔の言葉が五臓六腑に染みこんできた。

すべての事象をありのままに見つめること。「厚生労働大臣官房秘書課付 技官 白鳥圭輔」

もっとも困難なふるまい。「ありのまま」見つめる。私は事象を見つめるとき、「何か」が侵襲する。先入観や色眼鏡、原理思想などなど。そうやって自分の「型」に対象や他人をはめ込める。はめ込めて「わかった」と錯誤を犯し、他者を自分の視界から葬り去る。

排泄行為と看護

先日、『安楽病棟』読了した。高齢化社会を迎え、3人に1人が痴呆になるといわれる。だけど、痴呆は別世界のよう。それに覆い被さる「老い」もアンチエイジング。そして死はタブーに。別世界で看護する人々。ともすれば痴呆と老い、そして死は観念的に語られがち。でも、現場は糞尿にまみれる。人間の根幹である「排泄行為」。

患者さんの排泄行為にわたしたちが関与することで、患者さんをより深く知るようになるという点です。通常の看護場面において、わたしたちが排泄にまで立ち入る機会はそう多くありません。寝たきりの患者さんにおむつを当てたり、替えたりという行為はもちろんあります。しかしそれらの行為というのは、あくまで機械的にしがちであり、看護者と患者の間の人間的な交流は不思議なくらい希薄です。

それに比べると、排尿誘導は決して機械的にはできません。あくまで人間と人間のふれ合いの上にしか成立しないものです。そのうえ、排泄行為にはその患者さんの人となりがよく反映されます。トイレの戸の開け方、スカートのおろし方、下着の脱ぎ方、排尿のあとを紙でふく仕草、戸の閉め方など、ひとつひとつの動作に他のどんな行為よりも患者さんの個人史が出ます。 『安楽病棟』P.267

痴呆の人は排泄に個人史をもつ。機械的に排泄誘導しても誰も応じない。安楽病棟にいる人の個人史を観察しなければならない。元校長先生だった男性患者に、「トイレに行きますよ」と手を引っ張ると怒られる。子ども扱いされているようで。だから

もうすぐ会議ですから、その前にトイレに行っておいて下さい

と声をかける。「おやつを貰いに行きましょう」と騙さなければ行かない人もいる。排泄から

  1. 生活史を深く理解すること
  2. 生活史からその人個人に適した接し方が他の看護面での接し方にも影響を及ぼし、その結果、きめの細かいケアが可能になること
  3. 患者観察が濃厚になること

を学び、ケアへいかす。やがて、「自分自身で排泄ができるようになる」と痴呆の人は自尊心を回復する。最後に皮肉な結果として、看護する側が「ケアされている」ことに気づく。

茶会に招くようなケア

痴呆は十人十色。誰一人として同じ痴呆はない。排泄にまつわるふるまいも同様。便失禁したとき、知らんふりする人や他人へと責任転嫁する人、素直に謝る人もいれば反対に怒鳴る人も。そんな人たちを看護主任が茶会へと招いた。

やっているうちに、前に坐っているのが患者さんとは思われなくなってきたものーーーーー[…] そうね、普通にお招きしたお客様と同じになってきた。おそらく、わたしたちの日常の看護や介護の仕事も、そんな気持ちでしないといけないのよね。頭から患者さん扱いするのではなく、一期一会のお客様、友人として接するということ、いい経験をさせてもらっちゃった 『安楽病棟』P.460

ビジネスの臭いがするお客様じゃない。お招きした客人。歓待の本質。生涯ただ一度まみえる、一期一会とありのまま見つめることはつがいなのかも。一期一会だからこそありのまま。おのれ自身を何かの帰属へのこだわりから解き放ち、異他化させる。病院にやってきたから「患者」扱いしてしまうと視野が狭くなる。

「授かる」と「召される」を耳にしなくなった。「産む」あるいは「つくる」と言い、「逝く」という。自分が主になった。主は観を持ち、ありのままを歪めていく。

「ケアすることで自分がケアされる」—– わたしが真摯に受け止めなければならない言葉。そして「ケア」を日本語に脳内で変換し、身体で感じるように翻訳しなければならない。

すべての事象をありのままに見つめること。