儀式

2010.01.14 晴れ

目覚めた時の自分の姿を認識して驚いた。一体、寝ながら何をしたかったのだろう。掛け布団の上部は頭上を越えて敷き布団からはみ出ていた。その分、足元は布団がかかっておらず極寒状態。 足は足で必死に温まろうと膝をおりまげて布団の中へ潜り込もうとする。膝を抱えて天井を向いて寝ていた。

午前中、S社, M社, M先生のページ制作。午後、アルバイトの資料が到着したので着手。夕方からS社のページ制作。夜、アルバイト。なんだか慌ただしい一日。ただ、こういった手を動かせば結果を確認できるタスクは日記にも書きやすい。問題は、手を動かさないタスク、常に頭の中でとどまっているタスクがやっかい。

F先生の合宿に向けたファシリテーションがそれにあたる。Wikiを見ながら前回のミーティングを振り返り、iPhotoからミーティングで撮影したホワイトボードを確認。それらをインプットして合宿で何をするか考える。今年度のプロジェクト達成へ何をしなければならないか、そして何を削らなければならないか、さらに何を効率化すべきで何を共有化して何を個人の裁量にまかせるか。すべて何をである。どのようには現場から生まれる。問題設定に時間を割く。何をと何故は実践の準備。いわばレシビのよう。こういったタスクはまとまった時間を確保して紙に書いたりマインドマップしてもよいけれど、自分の場合、常に頭の片隅に置いといて、ぼぉっとしている時やニュートラルの時にアイデアが浮かぶ。

何をと何故、といえば儀式が思い浮かぶ。何かの儀式を経験したとき、存在理由を知りたい機会が増えた。10代, 20代なら面倒の一言で片付けてしまい、儀式の記憶を二度と開けない引き出しへ乱暴へしまいこみ、起源や制度へ関心を持たなかった。儀式は形骸化している行動様式も多く、確かに面倒だ。だけど、それらが続いてた背景はあるだろうし、合理的や論理的から一線を画する、と観察している。

制度も似ている。制度を壊そうとすれば、簡単に壊せる制度はあるはずなのにしぶとく残っている制度がある。壊すこと自体がめんどくさいのかもしれない。それにしては、誰も長い間手をつけなかったなぁと感心したり。

儀式や制度はなんだかよくわからないへんてこりんなシロモノということを理解できるようになってきた。自分一人だけならカンタンにやめてしまえるけれど、相手がいる場合、やめるとなるとエネルギーを使う。それなら積極的に参画して形を改良して引き継げないかと考えると、やっぱり起源や理由が気になり出して堂々巡り。加齢っておもしろい。